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恋が多いです

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ペットにときめいたり、同性の素敵なママ友にときめくまではいいのですが、子どもを診てくださるお医者様等、異性の場合は不謹慎に思えます。そもそもこれは、恋ではないのでしょうか。もしくはその、恋ではない形に昇華する方法はありますか。
ちなみに旦那にはときめきはありません…。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

くくりをひろげてみましょう。

わたしは人がすきです。

女性も好きです。おくさんはおります。でも、近所のスーパーの
おねえさん、歯医者さんの先生、うちにお手伝いにきてくださる
70代のおねえさんたち、まちいくきれいなおじょうさんたちも、
すてきだなあとおもって、好きになります。

男性もすきです。パソコンとにらめっこしてはたらいている
おとうさんたち、工事現場のムキムキおにいさん。
すこしさいきんおなかがでっぷりしてきた石材店の若旦那。
福山雅治さん。みんなすきです。

好きとか、恋とか、愛とかいうのは、
ひろーーーーーーいくくりのなかであれば、決して後ろめたい
ことはないと感じます。ひろく、「地球に一緒にすんでる家族」
だといってもいいと思います。

好きのくくりをひろげてみてはいかがでしょうか。

どんどんひろげていけば、どんな人にも「魅力」があると
気が付きます。みんな好きになったら、異性もなにもありません。

遠慮せず、みんなを好きになりましょう。

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おきもち

恋の終着駅は何処か

こんにちは。先日私も電車の中で8人の女性と恋に落ちました。あ、間違い。心奪われました。
そんな私も沢山の女性をメロメロにしながら黄色い声援の中、後ろ髪を引かれる思いで電車を後にしましたが。(坊主で後ろ髪なし)
全て私の妄想ですが、ステキな人って沢山いますよね。
自分が魅力的な人になりましょう。花はひまわり、タンポポ、バラ、びんぼう草、どれもみんな美しいのです。それぞれ100本摘んでみたとします。
それぞれの花の中で最高に咲くことが華です。
だからと言って調子づけば高くなるのは鼻です。
鼻と同じく高くならない方がいいのが、恋によるノボセ。アタマの♨温度です。
日本で一番温度が高い♨は夜の駅の改札口です。込み合った駅の改札口には別れを惜しんで、ブチュブチュやりあっている若い男女が発熱しています。ヤカンを置いたら沸かせそうなので新しいエネルギーとして私は注目しています。
禅宗の戒律の5番目には不胡酒戒というものがあります。
これはお酒や薬など人を酔わすものの危険性をよく知りなさいと言うものです。
人を酔わせるものは酒や薬ばかりではありません。
人によって酔うものが違います。
映像、音楽、言葉、アイドル、煙草、みな❝酔わせ❞るものです。
その中で一番酔わせるものは何か。❝自分❞です。
ナルシストという意味だけではありません。
自分の脳内活動に酔うのです。恋の発生箇所も自分の脳内だからです。
相手に♡ホの字♡になっているようでも自分に酔っていることを見抜いて下さい。
沢山の人や物にホれてしまう惚れっぽさの原因は自分の中にあるのです。
自分がとらえた対象に対する愛着のはたらきの方に惚れているのです。
実物はあなたの脳内情報とはフリーです。
恋とはそれぞれが各自の脳内でやるものです。
だからこそ、そこに気づくことで人はお互い自由になるのです。
私は冒頭で述べた電車の中で恋に落ちた(正しくは脳内情報に酔った)女性達を皆、自分の脳内から自由にして差し上げました。かくして私の妄想は去り、現実に目覚め今日もお盆の準備をするのでした。
恋の終局は、どこでしょうか。一緒に添い遂げる?
いいや、目を覚まし。今日、今、そこ、目の前を生きることなのです。もう一度、あなたを無心に支えてくださっているご主人の背中を見つめてください。恋に落ちるよりももっとグレードの高い人間愛に目覚めるチャンス到来です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

年を重ねると枯れていくものだとばかり思っていました。「年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり」というふうにしていきたいです。

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