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今の仕事をどうするか悩んでいます

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多忙と人間関係の親密さが原因で体調が優れず、薬(精神薬)に頼り、量を増やして下さいと言った所、とうとう医者から療養しなさいと宣告されました。

私は今、飲食店で朝から夕方まで働いてます。多忙な職場でもあり、気が強い人が多いです。
それでも、緩い職場でもあり、融通を聞いてくれやすい所もありますが緩過ぎて嫌になる事が多いです(余裕がある時はお喋りが多い、プライベートの事に対して開放的など)

今まで辞めては休んで、新たな仕事を見つけてを繰り返してきました。(大体3〜4年)
辞める理由の半数は人間関係です。
今までの中で一番長く続いている職場です。(今で6年目です)
次辞める時は目的あって辞める時(結婚など)と決めていたので、長く続けれてたのもあるかもしれません。

何処にいっても人間関係の煩わしさはある、だからまたそんな事で辞めては、また繰り返すとそれだけの理由で続けてる部分もあると思います。

今、お付き合いしてる人がいて、結婚の話もしていて、結婚する時はお相手の事業を手伝う事になっていて結婚する時は辞める時なのですが、事業が安定してからなので当分仕事を辞める事は出来そうにないです。

自分には、就職になる様な有利な資格もなく歳を重ねて転職し続けるだけでは不利な事がわかっています。
生活に困らない程度と結婚資金の貯えも必要だと考えていて、療養だけするには厳しいです。

お付き合いしてる人に相談した所、自分の思うようにしたらいいよと言われたのですが、どうしたらいいのか、何が正しいのかわかりません。

宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

多くの人が自分の思い通りにしたがっているということに目覚める

世の中の8割9割方が自己中野郎の集まりだと思っていましょう。
❝強い人❞は単にそれを力で強行的に推し進めているだけで、ぶっちゃけ可哀想な人種なのです。
(^-^)「ああ、そうでしたか。」と言って、❝相手の要求を無理のない程度に❞❝自分の正義感を一切交えずに❞❝遠くへやり投げ、ホーガン投げのように❞なげ飛ばすことをイメージしつつ、会話をしてください。
ああ、この人は、こういう態度で自分の要求する地点に辿り着きたいのだなぁと思うことです。
そうするとあなたの美学やあなたの価値観、正義感と衝突しません。相手が勝手に目的地にたどり着くだけです。
この事を忙しい現場で実践してみてください。
あわただしい中でも林の中の如く静かになります。
あわただしいのはあなたの中だったのです。
あなたが相手の要求や要望に対して一生懸命自分を交えて応えようとしていたのです。
その相手の要望、要求に応じる時に、こちらを混ぜないで受け入れてしまうのです。
真の「おおやけ=公」になるのです。人がムになるとにんべんにムで「仏」という文字になりますように、これはまぁ、こじつけですが、実践する時に私を交えずに過ごしてみてください。
◉自分の理想を持ち込まない
◉自分の主義や価値観を介入させない
◉相手に理想的な人格を要求しない
この目前の事実すべてがあなたの願いや求めとまるで正反対、いや、無縁、無関係で、自由なあり方をしていると思ってください。実際、それが真実の姿「法相」です。
法相を知る時は「わたし」が滅せられる時です。
私のそばではセミが鳴いています。ウルサイとか、それが何のセミであるかもわからず、ミーンミーン、ジージー。そこに自分をまぜこぜにしないから、全く邪魔にならないのです。
自分をまぜこぜにせずに、現場にもう一度たってみてください。コツさえわかれば薬も要らなくなります。
理解を深めたければどなたでもお寺までどうぞ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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