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学習意欲が湧いてきません。

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私は現在高校三年生で、国公立大学をめざしています。
しかし三年生になってから、自分の思うように勉強に向かうことができなくなってきました。

理解力はあるほうで、一年の時から復習を中心に勉強してきました。
その甲斐あってか、二年からは模試や実力考査などでも学年で上位に入るようになり、周囲からも頭が良いと認識されているようです。

しかし、一、二年のときは問題を解けるのが楽しく、進んで勉強することが出来ていたのですが、
三年になりセンター試験や二次試験の対策など、内容が「大学受験」になるにつれ、問題集を開いてもすぐに他のものに手をつけるようになってしまいました。

ひとつに、大学での学問に対する期待、志望大学へ行きたい、という思いがあればと思うのですが、
大学のパンフレット等を見れば見るほど、行きたいと思っていた大学に魅力を感じなくなったり、別の大学でもいいように思えてしまいます。

もうひとつ、今年の六月頃まで部活を続けていたため、部活を引退したということが影響しているのかなとも思います。部活の仲間は好きですし、活動内容も充実したもので、先日の大会では賞をいただくことも出来ました。
しかしそこでも、結果はとても嬉しいはずなのに、どこか冷めたような気持ちがして、口では嬉しいねと言いながら自分が本当に嬉しかったのか今でもよく分かりません。
結果の如何より、活動していた間の方が幸せで、
その活動はもう終わったのだという事実が、いろんなことを邪魔しているようにも思います。

また、先述のとおり三年になってから学習量が減っており、一方で成績は保たれたままというぬるま湯のような状態で、
周囲の友達がみんな頑張っているのに、勉強しなくちゃ、とは思っても机に向かうと長く続きません。
親も先生も友達も、あなたなら大丈夫、というような見方で、
少し誇らしい一方、自分ひとり全然ダメだという思いがして、周りの友達からも置いていかれていくようで、心が沈んだままです。

受験のために具体的にどういう事をすればいいのか、今の計画で大丈夫なのか、
不安要素も消えません。
甘ったれて、嫌なことからすぐ逃げる自分も嫌です。
人に出来ることができない、というような不安と焦りで少し辛いです。

まとまりのない上に長文となってしまいましたが、
なにか良い考え方など、アドバイス等いただけると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

受験勉強を勉強するんじゃない

大学に入るまでの勉強というものは大学に入るための勉強です。
それはそつなくこなしておきましょう。
私もつまらなかったです。深められないですし、知識を記憶するだけですから。
勉強前に2分ほど黙想しますと記憶力が増します。
覚えればいいだけです。コツを掴めばスイスイ入ります。先日大学の図書館に急に行きたくなり本の虫になりました。
本当に勉強したいことって、あらかじめしかれたものではないと思います。
大学時代も本当に興味のある授業は無かったです。
私に必要が無かったからなのです。
ところが大学の3年4年あたりから急に思い悩むようになりまして。
そこから仏教を学ぶのが楽しくてスイスイ入ってきました。
どこの大学に入っても本人が勉強する気が無ければどこに入っても肩書き、ブランド、名前だけ。
人生においても最も楽しい学びって、人間関係の中にこそあるように感じます。
人間関係を深めていくと、自分自身に目が向くようになり、自己探求が始まります。
自己探求の最終目的はいま、ここ、おのれ、目前のそのこと。
そこ以外に他に真実らしいものは頭で思い描いた自分の理想であり、目前の真実、足元の真実自己ではないからです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あせることは何の役にも立たない

 高校三年生。夏休みにはいったかな?夏休みは正念場。ここで差がつきます。周囲との差を広げておきたいところです。

 受験勉強は「追う」方は成績がぐんぐん伸びて楽しいんだけど、「守る」方は自分との苦しい戦いになりますね。

 周囲が勉強しはじめ、あせりもあるでしょう。

 ゲーテに「あせることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。あせりはあやまちを増し、後悔は新しい後悔をつくる。」という言葉があります。
 あせらず、あなたのペースで。計画があるならその計画通りに。周囲がどうじゃない。「部活は楽しかったなぁ」じゃない。「今日はあまり勉強しなかったなぁ」なんて変な後悔もいらない。自分の計画を信じ「今」に集中しよう。

 また「問題を解く楽しさ」を感じられるようになると良いですね。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

高校教員の目線から

はじめまして。亀山純史と申します。
私は僧侶であり、現職の高校教員ですので、このえさんのご相談への回答は、高校教員の立場で答えさせていただきます。

【志望大学について】
まだこの時期は、大学ごとの個別試験対策の時期ではありませんから、行きたい大学が絞られていなくても良いと考えましょう。それよりも、大学で何をしたいのか、ということのほうが大切です。

【部活動について】
部活動が活動のための活動になっていたのかも知れませんね。つまり、活動することに意味があり、活動が終わってしまうと、何のための部活動だったのか、と思ってしまったのではないでしょうか。うまく心身を切り替えることが必要でしょう。そのためには、部活動であなたが得たものは何であったのかを紙に書き出してみることです。頭の中で考えただけでは駄目です。紙に書き出すことで、論理的にそして正直(明確)に自分と向き合うことができます。

【部活引退後の勉強量について】
三年生になって、特に部活引退後に勉強量が減ってくると、間違いなく秋口から成績は下降していきます。それは今まで部活動や生徒会活動で勉強できなかった人たちが、勉強し出した結果が出てくるころが秋だからです。(勉強の成果はすぐには出てきませんので。)ですから、部活動をしていたころよりも、勉強量を増やすようにしなければいけません。

以上、私からのアドバイスです。ご参考になさってみてください。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

質問者からのお礼

想像以上にお早い回答に驚くと同時に、丁寧なご回答を読むにつれて涙が出てきました。
今まで人に相談することがあまりなかったので、文字に起こして整理するだけでなく、それを見てくれた人がいらっしゃったこと、有難いことに回答まで頂けたことが、気持ちを少し前進させてくれたように思います。
ご回答くださった御三方、ありがとうございました。

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