偽善者とはなんですか?悪い事ですか?
2度目の質問ですが、よろしくお願い致します。
私は常々、自分は偽善者だと思って幼いころから生きて来ました。
おせっかいな性格だと思いますし、変な事にわざわざ首をつっこみます。
自分が大変で人がいい思いや楽をするのを何故か好みます。
そうしたい訳では無いのですし、良いことではないのもわかるのですが、そうなります。
保育園のころからなので、なぜなのかずっと考えて、結局は自分の為で、そうすることで自分がこの世に産まれてもよかったんだ、いらない命なんかじゃないんだと小さい頃考えていた事を思い出しました。
すべて自分の為にしてきた偽物の善いことだったんだとおもいました。
ただ、それはダメな事ですか?
人が喜んでくれたり、誰かの手助けをするのを自分の為にするのはダメなことなのでしょうか?
ご回答よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
布施の心で!楽に心軽やかに真実へと向かうのです。
仏教には悪業と善行がありますが偽善の心は悪業の内に入るでしょう。
善い事をして何かを得たいと行動しもし得られない時心は期待外れとなりその結果、裏切り、絶望感、裏切りを感じてしまい悪の心へと移る事もあり得るのです。
貴女の今までの様に善い結果で終わっている時は良いのですが、これから先もし期待どうりに成らない時それが貴方にとぅってプラスになるでしょうか。
必要以上に求めたり、期待したりはしてはなりません。そこには本来の人としての生き方は生まれません。迷い悩みの世界へと繋がって行きます!
本来の生き方は布施(財施、法瀬、無畏施)必要以上に何も求めず何も期待せずの心を持つ事で真実の心が備わります。真実の心を持つ事が楽に心軽生きる方法です。
中道を大事にしてやってください
何かを求めて何かをする、それが良いことであれば偽善と捉えられることはあるかと思います。また、人というのは勝手なもので、その人が純粋に善でしたとしても偽善と捉えることもあります。しかし、そんなことを気にすると何も出来なくなります。
こんな言葉があります。
「人に施されては慎んで忘れるべからず」
「人に施しては慎んで思わず」
私の信仰する真言宗の宗祖、弘法大師空海様が、大事にしていた座右の銘です。出典は中国の後漢時代の政治学者、崔子玉というお方が文選「座右銘」という書物として残された、現代「座右の銘」で使われている言葉の原典です。
それは、豆知識として、上の2行の文は、私自身もとても良い言葉だと思っています。人はつい見返りを求めてしまうもの、また、つい恩を忘れてしまうもの。そういうことのないように気を付けましょうということです。
人を助けたり、何かをするのを自分の為にするのは偽善で悪いかと言うと、そうでもないと思います。自分の徳を積むためにすることは立派な善です。それがおせっかいだったり、求められてないものだったりすると反対の結果が出ることがあるので注意が必要です。また、大事なことは、見返りを求めることはしないことです。純粋に施すということが、純粋な善行です。
やり過ぎたりすると、相手に迷惑がられるので、ちょうどいい加減、つまり中道の気持ちを大事にして、これからも世のため、人のために役立つことをなさってくださいね。貴方様のその、人の良さを大事にして下さい。しかし、利用されないように気をつけることです。
質問者からのお礼
山口秀徹様
御回答有り難うございます。
今まで上手くいこうがいくまいが、どっちに転んでもなにか学べるので、今までの短い人生全てプラス✨
…と能天気に思ってましたが、何も求めない人生…考えるだけで穏やかで幸せそうですね。
人に求めない…心がけます!
有り難うございます。
卓阿様
御回答有り難うございます。
小さい頃母に、人にしてあげた事はどんなに大変な事でもすぐに忘れろ、忘れられないならするな!
人にしてもらった事は、どんなに小さな事でもけして忘れるな!
と言われて育ちました。覚える事はとても得意になりましたが、忘れるのはなかなか上手くいきません。
0か100で、極端な性格です。
中道!考えた事もありませんでした…
今までの自分と真逆の教えでなかなかショッキングでした。
見返りを求めない…私は気持ちの見返りを求めてしまっていると思います。
これから気をつけていきます。
有り難うございました。