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親友と縁を切りました

回答数回答 2
有り難し有り難し 22

周りの人間をみんな大事にしたいと言うのは、欲張りな事なのでしょうか。

一年前、親友と縁を切ってしまいました。
理由は、私の彼が、彼の幼馴染であり、親友の恋人を裏切り警察沙汰になった事からです。親友から

あなたが彼とつきあっていくなら私はあなたと縁を切るからどちらか選んで、、、という選択を受けました。
私なり考え、彼もとても後悔氏、反省しているし、1人になる彼をほっとく事ができず
親友とは、さよならしました。

今、彼と一緒にいることに後悔はしていません。
ですが、親友を傷つけてしまったことを今でも後悔しています。
そして時折思ってしまうのです。
どうして、大事な者を私が選択しなければならなかったのか。
どうして私がどちらかを失わせければならなかったのか。
そう思うと、彼や、選択させた親友を時折心の中で責めてしまいます。
そんな風に思ってしまう自分が醜くて嫌になりそうです。
どうしたらそんな風に思わなくなるのでしょうか


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたが選択しなのではなく、選択されたんです。

後味の大変悪い思いをされたことと思います。
迷った時、回答に窮した時には、冷静に考えることです。
あなたが選択したのではなく、選択肢を出すという結論を親友から出されたんです。
悩むことはありません。というより、悩んでも仕方がありません。
理由は何故かといいますと、
この問題は、あなたの彼と、親友の彼との問題であって、
あなたと親友の間の問題ではないからです。
大人なのだから、男同士に任せる。
あなたと親友は介入しない。または、
お二人が間に入ってケジメをしっかりつけるという、
選択肢もありますよね。
そういう選択肢は除外して、2者択一を迫るのは、
非常に恣意的です。簡単に言いますと、ご無体なというとこころでしょうか。
裏切った内容がわかりませんので、その程度と内容ですね。
親友が怒るのは怒る理由があるのかもしれません。
そこまで酷いことをしたのなら絶縁しても仕方がないということですね。
そうであったとしても、これはあなたの彼と親友の彼の問題なんです。
あなたと親友間の信義に関することではありません。
直接関係のないことで、選択を求めること自体に無理があります。
無理な選択を迫った親友に無理があり、
あなたがそれを気に留めることはありません。
というより、気に留めてもしかたがありませんよ。
友人関係は平等で対等です。
「私と友人でいたければ彼と別れなさい。」といっていうように思えます。
失礼なことを申し上げますが、
今後何かが起こった場合に簡単にお別れしたように思えます。
なぜなら、お二人に間に信頼感が十分に養われていないからです。
何があっても信頼関係を維持することは、難しいことです。
でも信じてみる。そして裏切らない。
このことを基本に今後の参考にされたら如何でしょうか。
信頼するといっても、お金を貸したり、保証人にはならないでくださいね。
もう、過去は振り返るのはやめましょう。壊れた関係はなかなか繕えません。
ご縁があったら、また戻ります。
どうか、お幸せに!!ご多幸をお祈りします。浄光寺

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有り難し
おきもち

個別相談可能
浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

ルールを作ること自体がおかしいかと

人が人を縛るのって変です。
その縛るルールは人が作るのでしょうに。
じゃぁ、そのルールを人が作らなければ良かっただけのことではないでしょうか。
単純で簡単すぎますが、みんな見落としてしまう大事な所です。
地元で昔は信号なんかなかった場所に信号ができました。狭い道で信号なんていらないほどです。
歩くとき、その信号に縛られずに歩きます。
人が作ったルールに人が縛られなくてもいいと思います。
ちなみに人は所有できません。所有できないものです。
所有出来ないのに所有しようとするのも人間のルールです。
身近にはいつの間にか作ってしまった自分ルール、マイルール、セルフルール、無自覚ルールがいっぱい。これを機会に自分のルールに目を向けてみましょう。そして、そのルールをどんどん解除しましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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