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兄弟と全く連絡が取れない

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兄弟と年が離れているのと、父親が違うこともあり私たちはうまくいきません。
私は結婚したのですが兄弟と全く連絡が取れず旦那に挨拶すらしてもらえない状態です。
避けられているのか、もう何年も会っておらず。
実家も出て行き都会で生活してるようですが。

周りは兄弟が可愛くないのかね、連絡は繋がるのに連絡が取れないということは何か考えがあるのではないかと言っています。

育ての親のうちの父も諦めていて、兄弟は今まで私に酷いことをしてきたり困ってる時に追い込むようなことをして私が救急車で運ばれても恥ずかしかったなどと言うような人でした。

その裏には私の父親の実家の人が兄弟が父と血が繋がってないために大切にしなかったことがあるから、私が悪いのではないと親戚からは言われます。
父は病気があり、父に何かあった時のことを考えると、普通は連絡が取れる状態にしておくはずだし、

何かあった時に連絡が取れないようにしてるのは父親と思ってないとかめんどくさいから自分は何もしないという意思の表れではないか、と考えています。

今の兄弟とは言えない他人のような関係だとそれが兄弟の答えなのではないかと考えてしまいます。

もう兄弟は死んだと思って、私は一人っ子として生きていく方に考え方を変えた方が良いのでしょうか。
死ぬ前に兄弟と分かり合える日はくるのでしょうか。
私は、母親がいないから兄弟助け合いたいと思っていますが、相手は全く違う考えなのでつらいし苦しいです。

天国にいる私たちの母親もかなしんでいると思います。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それが今の真実ゆえその真実のままに

相手のある事です。
相手の事情や生活苦、色いろな条件が重なり合って「たまたまいまウマくいかない」だけだと思いましょう。
兄弟というものは結婚するとほとんど他人状態、疎遠になるものです。
それはむしろ、自分の子供に一生懸命、愛を注げる時間として捉えることです。
子育て中にいろいろと親族づきあいがあったらそれはそれでお年玉からお中元お歳暮、交通費交際費、結構大変なものです。
そういう気遣いや配慮をお互い気を使い過ぎることなく、相手にも負担にならない様に、、、という事も有ったりするものです。
時期がきて、みんな家庭からのシバラレが緩くなって来れば自然に会えるものです。
一緒に暮らす訳ではないのですから、あまり絵に描いたような幸せを持たない方が良いかと思います。
相手に対してこちらの高い理想や要求を一度取り下げてみましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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