娘の死
先日娘の死に質問させていただいたものです。
御返答に涙が止まりません。
まだ気になる事があります。娘も訳もわからないまま逝ってしまったのだと思います。未練もあったりするのだと思うと苦しくなります。
どう思ってあげたらいいのですか?
それから娘もたくさん友達はおり、たくさん泣いてくれました。4月から高校生の皆は楽しそうで新たな友達もでき、楽しそうです。
周りは当たり前ですが普通に過ぎていき、皆から娘が薄らいでいかないかきになって辛いんです。
ずっと一緒、そばにいるといってくれたり、来てくれたりしていてもちろんありがたいです。
親とはもちろん感情は違うと思います。
娘を忘れないでと思いすぎるというか。
いろんな気持ちが葛藤します。
頑張ろうとか嬉しいとか感謝もたくさんします。でもどうしようもなく寂しくて会いたくて苦しくなったり。
その繰り返しが当たり前なのでしょうが、会いたいと思いすぎるのも娘には良くないことなのかな。とか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あえてその執着を“ハナス” 「話す、放す、離す」
会いたいお気持ちは、ある時から故人様と対話する力へと変わります。
お嬢様のお友達に何かを願うのは、お嬢様の友達を通して、お嬢さんが今もなお生きてくれているようなお気持ちにさせてくれるからなのでありましょう。
「話し、放ち、離つ」の3つの修行
ずっとそばにいて欲しいと思われるかもしれませんが、
①お仏壇に向かってお声かけをしっかりなさることもご供養であり、
②いつかは手放して自由にさせてさしあげること、
③距離は離れても、この世界という大海原でそれぞれに生きることも供養です。
話す、放す、離すことはハナスという言霊的にも同義です。
離すといってもこの世界という仏の海の中でご一緒なのです。
いつの日か、あなたが、この不運を乗り越えて「大丈夫よ。」と強い生き方をすることが仏道なのですから。
あなたがお嬢さんにしっかり伝えるべきことを伝え続けて、哭くのを卒業するべき忌日である“卒哭忌”に「お母さん、しっかりやっているわよ、見守っていてね」と、お嬢さん方も、ご主人も、安心できるようなご報告ができるように、毎日を疎かにしないように生活なさることです。もちろんご家族とのお話し合い、時には相手のお話を受け止めてあげることも大切です。互いの心の辛さ、寂しさの“お放し合い”でもあるのですから。
そうしてゆく中で、必ず関わり合いは明るいものに変わっていきます。
まず、冷静になられてからご自身に目を向けて以下のような正しい認識をお持ちになられてください。
「今苦しいのはこの私。娘はもう今は安らかな境に導かれたのだ。悲しいのはこの私である」と。
今苦しんでおられるのは、“あなた自身” であって、もうお嬢様はあらゆる痛みや苦しみから解き放たれて安楽の世界に入られたのだ、と。
「娘がこの世に未練があるんじゃないか」と思われるかもしれませんが、生きている我々が故人に気持ちを重ねた時、そのように思われることがあるだけです。
今はあなた自身の苦しみの縄を緩めることが第一です。
その為に以下の内容を熟読玩味いただければ幸いです。
①亡くなられた故人様のご関係者は、それぞれの立場で皆、誰もが悲しいのであって、誰が一番悲しい、とは定められない。
→お父様だって、お嬢様だって、ご友人だって皆、悲しい。
②亡き後もご自身の生活が続いてゆく以上、故人様との関わり合いはちゃんと残されている。
お墓参りやお仏壇にお手合わせをするなどお嬢様との“関わり方”こそ変わるものの、それは“関わり方”が変わっただけで、「関わること」自体に終わりは無い。→あなたに素晴らしい出会い、幸せある生活を与えてくれたお嬢様への報恩謝徳、報恩感謝の供養を通して「関わること」を続けてゆくべきである。
③人は何歳まで生きれば“これで良い”ということはない。
生ある中で、良い関わりがあったように、死しても良い関わりを続けてゆく。
これから先も家族と、故人様とで良い関わりを。
→辛い、苦しい、悲しい心を、お嬢さんが大好きだったお父さんであるご主人や、面倒を見たかったであろう妹さんである次女の為にも、母親としても妻としても、亡きお嬢さんの為にも少しずつでも闇から光へと転じてゆく必要と責任がある。
生きる者が亡き方を「仏さま」にする
じゅんちさま
もう20年も前になりますが、私が大学生の時にクラスメイトが手術から目覚めることなく亡くなりました。本来は生命に関わるような手術ではなかったのに、です。
私と彼は特別親しく付き合ってはいませんでしたが、それでも時々思い出します。それは私が僧侶だからという事もあるかもしれませんが、彼の存在が私にとって大切な「いのちについて考えるきっかけ」だからです。
また彼の無念や未練を考えると、自分はもっともっと頑張らなくてはいけないな、と励まされる思いがします。
長女さんの友人たちは、残念ながら四六時中、長女さんのことを思っていてはくれないでしょう。時が経つにつれ、思い出す頻度も減っていくかもしれません。でも、ふとした時、大切な時に思い出すことがあるのでは、と思います。
亡くなった方を「仏さま」と言うことがありますが、亡くなった=仏さま、ではないと私は考えています。
故人を思い出したことが、その方にとって大切な気づきや励みになった瞬間=亡くなった方が仏さまとして活躍をしている、と言えるのではないでしょうか。
長女さんの友人たちにとって、長女さんが大切な仏さまに成られるよう念じています。
またご家族、そしてじゅんちさんにとっても、時間がかかるかもしれませんが、いつかそんな日が来る事を心より念じています。
共に生きる大切さ。
じゅんちさま
質問に私なりにお答えできればと思います。私もお坊さんになるきっかけ、ご縁は、弟の死というものでした。4人兄弟のうち2人が亡くなり今、私ともう一人弟がいます。両親は、もう30年くらいたちますが、まだまだ「あのとき~しておけば・・・」という思いは決して消えません。煩悩ですから生きている間は決して消えません。ただ、その思いを弟の分まで生きなければ・・と私自身も思って生きようとしたこともありましたが自分自身もつぶれそうになってしまいました。その“命の分”ではなく私は、亡くなった弟と「共に生きる」ことが大切なんだと感じました。私にとっていつでも共にいてくれる存在が亡くなった弟です。いつでも何か、みてくれていると思っています。何か良い回答をくれるわけではないですが、いつでもみていると思うと人生に“ハリ”が出たような気がします。ただその思いになるまでは、時間がかかりました。なのでじゅんちさまもゆっくりとその死というものを受け入れるまで時間をかけて下さい。決して納得はいかないでしょうが・・・ゆっくりとその思いと向きあえるときがくると思います。
じゅんち様。
以前のご質問にもお応え致しました、沙門の密富です。
その折もお返事致しました如く、今は貴女自身のお気持ちが揺らいでいるときですから、
娘さんの事の色々なお考えが出て来て当たり前です。
其れは其れで排除する事無く、受け入れておいて下さい。
排除してしまう事で、其れは後々気持ちの整理が着きにくく成りますから…
また、貴女様の仰る「気になる事があります。娘も訳もわからないまま逝ってしまったのだと思います。未練もあったりするのだと思うと苦しくなります。 どう思ってあげたらいいのですか? 」との事ですが、今は、其れも其の侭の思いで結構ですよ。
それと、こうして此処に書き込み為さる事も良いのですが、
ご葬儀の折にお世話になった菩提寺のお寺様が居られたならば、一度お話を伺われたらと存じます。または、当方(http://www1.odn.ne.jp/seiriyuji/)
へのお電話でも宜しいですよ。
書き言葉だけでは、細かなニュアンスが伝わって来ない場合も有りますので…
どうぞ、ご遠慮なくお話を為さいませ。