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うつ病の主人との関係

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有り難し有り難し 16

今別居しています。

14年前より、夫婦関係が上手く行ってなく、会話もなく、家庭内別居状態でした。その後主人が、仕事のプレッシャーも重なり、うつ病と診断され、休職→リストラされました。

幸い知り合いの紹介で、次の仕事に就きましたが、病気のせいとは解っていても、主人に優しく接する事が出来ませんでした。
周りからは、優しく!病気なんだから!と言われ、自分自信も償いと思い、数年一緒に暮らしましたが、私まで病気になりそうになり、子供たちの理解を得て、別居する事になりました。

最近調子がいいかと、家に度々帰っていますが、やはり暗い主人を見ていると、気分が落ち込みます。病気が余りにも長いので、病院変われば!の意見も無視ですし、何を言っても、スルーされます。
全く会話がないのです。

明確な離婚理由があるわけではなく、元気な頃に戻ってくれればと思いますが、離婚か?このままの暗い生活か?と同じ問いがグルグル頭を回っているだけです。

このままの生活が人生の終わりまで続くのかと、虚しくなります。

今の主人を好きにはなれません。

長々とすみませんが、これが試練なのか、宿命なのか…楽しい人生を諦めるべきか…教えて下さい。

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私見、主観、自分目線をお互いにやめていく努力。

大変長い間ご主人様のケア、支え、お疲れさまでした。いくら夫を支える妻の立場とはいえ、さすがに限界もありましょう。ご主人も甘え上手で胸の内を何でも話してくれる方だと良いのですが、奧様の態度や表情によって寄せ付けないオーラが出ちゃっていると男性は甘えづらいという事もあろうと思います。
「何で言わないのよ!ぷんぷん」という姿勢よりもすぐ隣によりそって、心を開いてくれるまで何でも聞く姿勢で。…を続けていってみてください。
毎日やさしく肩をもんであげたり、マッサージをしてあげるのも効果的です。
💀
私の独断と偏見と先入観と思い込みですが世の中の男性や周りの同級生や知人の男性をみていると、
奧さんとの関係がうまく行かなくなると、男性は大体ふて腐れてしまい、無言、態度、表情などで怒りや不機嫌をあらわすのみで、自分の真実の感情を吐露するまでには時間がかかる、もしくは奧さんには直接言わないケースが多いように感じます。では、どこでそのストレスを発散するのかといいますと、娯楽や趣味があればよいのですが、ギャンブルキャバクラ浮気、風俗などに走ってしまうとあわわわになります。もっと大変なのは誰にも言う人が居ない、ということです。そうなると当然、孤独、孤立、心が病みます。
心には習慣性があります。
どうしてもネガティブ回路が働いてしまう前に、物事をそのままストレートに観察することが人間の基本です。たとえば今日は八月の十五日です。
今日は何の日でしょう。
大変興味深いことに人によって捉え方が違うのです。
終戦の日
平和の日
敗戦の日
屈辱の日
スマップの解散でそれ何処とではない
誰かさんの誕生日
誰かさんの命日
リオで金メダル万歳
お盆でバタバタ

これらは、みんな誰か個人から物事をとらえた私的なビジョンなのです。
本来8月15日は「その通りの日」です。まだ、そこに何もついていません。今起こっていることが真実です。
平和の鐘も撞くでしょうが、それでも今日は今日という人類史上最も新しい日です。
ですが、人間はどうしても考え方の上で、物事を眺めて決めつけてしまったり、悪いことを考えて無限ネガティブループから抜け出せなくなってしまう事もあるものです。一度夫婦で坐禅会に参加もご検討ください。http://zazen.blog.jp/archives/cat_958259.html

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中、アドバイス頂き、誠にありがとうございます。
仰る通りだと思います。
ここが頑固?な所で、私の心が狭いのか、優しく出来ないのです。
今は、主人に触ることさえためらわれます。
(生理的に受け付けないのです。)
私なりに、会話を持とうと話しかけますが、構えてしまっている主人がいて…

座禅、考えてみます。主人が協力してくれるかが、ハードル高そうですが、何かしらの活路が見出せればと期待して、言ってみます。

本当にありがとうございました。

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