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実母との生活について

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有り難し有り難し 9

元旦那の行動、病気に堪えられなくなり
子ども3人連れて離婚しました。
すぐに住む所が必要でしたし子どもが小さいので
知り合いの少ない地域よりも
家族がいる実家が良いだろうと
帰っても良いか母に聞き
了承を得たので帰りました。

帰ってもいいと言われ帰ったのに
子ども達が煩い
邪魔
病原菌
と実母から言われたり
手をあげたりされ
夕方の仕事も了承を得てしていたのに
早く辞めたらいい。と言われ
仕事中子ども達を預ける形でしたが
上記の母から子どもに対する行動に
心配になり辞めました。

収入の為には子ども達を園に預け働きに出なければなりません。
が、子ども達が病原菌と酷くまた言うのではと思うと
不安です。

家を出れば母からの言葉や行動に傷つかずにすむと思うのですが
住居、仕事、託児所、お金をどうにかしないといけない。
資金が集まるまで我慢すれば良いのですが
子ども達の事を思うと
早く行動にしてストレスから解放してあげたいと思うんです。
行政に相談すれば変わるかもしれません。
が、母にはあまりいい結果をうまないんじゃないかと
躊躇います。

どうすれば母にも子ども達にも
ストレスなく生活出来るのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

先ずはあなたがお母さんのことを認めてあげましょう

亀山純史と申します。
あなたもあなたのお母さんも、自分中心に考えているところがありませんか。これは何もあなたのことを責めているわけではありません。人は常に自分中心に物事を考えている、と言っても過言ではないのです。たとえば、お祖母ちゃんにとって孫は、全くの他人ではないので、孫の行動には口を挟むでしょうし、孫は自分の子供ではないのでその発言は無責任になりがちです。無責任な発言とは、決して相手のことを考えての発言にはなりません。自分に都合のいい内容になりがちです。また、「邪魔」「病原菌」という発言はどう考えても自分中心の考えから来る発言でしょう。一方、あなたはどうかと言えば、離婚をして実家に入ったのも、自分たち家族を第一に考えたからです。そして、自分中心の見方は、「帰ってもいいと言われ帰ったのに」という発言に繋がってくるのです。お互い自分中心だと、お互い疲れきってしまいます。あなたも辛いが、あなたのお母さんもあなたが戻って来たことで、その負担は大きかったにちがいありません。ここは、あなたの方から自己本位だった点を素直に認めて、話し合ってはどうでしょうか。一方的に、「ここが悪い」、「あそこが悪い」とばかり言っていれば、人は委縮してしまい、相手は自分に心を開かなくなるでしょう。本来、人は寂しい存在です。『無量寿経』には「私たちは、この欲望に満ちた世界に、独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去る存在である」と説かれています。お母さんのことを認めたうえで、あなたの思いも話せば、お母さんもあなたの気持ちを理解してもらえるのではないでしょうか。
「家庭は心と心がもっとも近く触れあって住むところであるから、むつみあえば花園のように美しいが、もし心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして、破滅をもたらすものである。」とお釈迦様は言っています。是非、心と心が調和した親子関係を築いてください。
今回の私の回答が、少しでもお役に立てれば幸いです。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

ごめんなさいの精神がオモテに現われていない

ある60代の女性から相談を受けました。
「せっかく子育ても終わったというのに、今さら同居ですよ。長年子育てで苦労してきたというのに、その子供から今さら苦しめられるなんて…。ハー…、通常は、この年齢というのは、もうゆっくり自分の事だけやって良い、そういう事が赦されてもいい年頃じゃないですか…」
この方のお話しを良くかみしめて頂きたいのです。
それがその年頃の、母親というものの本音の心情です。
おそらく、あなたにお母さんに対する慰労が無い、甘えがあったり「親だったら娘が苦労している時に助けてくれて❝当然・当たり前じゃないか❞」という傲慢さがどこかしらかにじみ出ているのではないでしょうか?お母さんだって、本当はゆっくりしたいはずですよ。
そのテリトリーを侵害してお邪魔しているのですから毒づかれて当然です。
あなたの方にむしろ、謙虚さが足りないのです。
結論:あなたが先にお母さんより被害者になっておられる。離婚で本当におつらかったでしょう。それは本当によく分かります。その苦しかったこと、赦しがたいことは、また個別に相談に乗りますので後日お悩み苦しみを質問でお寄せ下さい。ですが、一番の被害者はあなたよりも、何もしないで平穏に暮らしていたのにもかかわらず、娘の離婚によって苦しめられているお母さんなのです。我が事を優先させてはいけません。まずは、お母さんに詫びて、本当に子供によって迷惑かけている事を詫びて、お願いをする。どんなにひどいことを言われようと、それを受け入れる。自分を優先させてはいけません。(涙)
大変な中厳しいことを申し上げてすみません。でもそれがまず家族であい和する道です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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