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辛いです

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

職場の同僚がいちゃついてるのを見ると腹が立ってきます。
その女のほうの同僚が鈴を転がしたような声で笑うのを聞くと、胸が苦しくなります。
何が楽しいんだろうと思ってしまいます。
会社で孤独です( ; ; )
みんなが楽しそうに話してても、話の輪に入っていけません。
死にたいくらい辛いです( ; ; )


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一度空手になりましょう。アンタ、単に素直じゃないだけです。

いきなり意地悪なタイトルですが。ぶっちゃけ、そうではないですか? …ね?
ウソでもいいですから「私は素直ではない。そういう面はあります」と受け止めてみてください。
あなたが素直ならば「ハイ。そうです。どうしたらいいんでしょう。」と一歩👣足が進められる。
物事を突っぱねる姿勢があることに気づいて、その盾を捨てて一度空手、フリーハンドになって欲しいのです。物事は単純でいいのです。
何かあれこれ理由付けや言い訳を考えて「私は本当はそうではなくて…」と自分を高みに見せようと別のことを持ち出して本題からずれていってしまう。そういう方がおられます。これはあなたに申しあげているのではなく、人間にはそういう心理があるということです。世の中にはこうした事に悩んでおられる方が沢山おられます。せめてもいません、何かを変えなさいとも申し上げません。自分の打ち返し姿勢、反発精神、排他的スタンスに気づいて頂くだけで解決が早いのです。
寂しければ、寂しーと言えばいい。
仲間に入りたければ入りたーい直接素直に言えばいい。
どんどん、スーッと入っていけばいい。
「でも…、どうせ…、だって…、DDD,💀…DEATH」のDだらけの思考を離れましょ。
「でも、どうせ、だって」というネガティブ思考は、建設的な考えを生みだせないからです。
楽しそうにしている人たちを、羨ましいと思うにしても
💀「…どうせ、アタシだけ、Nokemono、Murahatibu…」と暗く考えるのではなく、
(´Д`)「あー、いいなぁ♡楽しそー。なになにー?アタチも入れてよ-う♡入れてってばぁ♡ネェネェ♡」とプリプリキャラに変身することです。
アンパンマンで言うとへそ曲がりなバイキンマン姿勢になっているからいけないのです。
もっと、名もなき平凡キャラになりましょう。
みんなと仲良くできる、ヨイモン側の平凡キャラになるのです。社内の立場に固執していませんか?
楽しそうにしやがってー、はひふへほ~!という姿勢では、相手の幸せを祝えません。
もともと「自分のキャラ」なんてモンはどこにもありません。
単にそうしている方が楽で防御しているだけでしょう。
固執した自分を捨て、キャラ変、書き換え、差し替え、役替えするつもりで、輪に入っていきましょう。
疎外感、孤立感、のけ者感を生みだしていたのは、自分の姿勢を維持しようしていた執着です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

わかりました

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