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父親の死について

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初めまして。
父親が亡くなってから、3ヶ月経ちました。

仕事中に亡くなりました。原因は、会社側にあるとのことです。

家族みんな、突然の出来事すぎて、悲しいしさみしいけれど、まだ生きているようにも思います。

父親は"これから"がある年齢で亡くなりました。

孫がたくさんいます。私は、父親に孫との思い出を沢山作らせてあげたいと考えていました。

それなのに、失礼にはあたると思いますが、病死ではなく、仕事中のしかも原因は会社側にある死に方。

受け入れたくても、受け入れきれません。

相談したくて書き込んでいるのか、ただ聞いてほしくて書きこんでいるのかもよく分かりません。

気になることはあります。

・こういう突然の死は、父親の運命?だったのか。
・父は、あの世という世界へいけているのか。

この2点が気になります。

お坊さんの経験談?でもいいので答えていただきたいです。

あと、夢に父親が出てきます。亡くなったばかりの頃は、父親から大丈夫と聞かれました。

最近は、夢の中で私は生き返ったと思っているのですが、身内ではなく他人、医療系?の人に死んでるんだからかわいそうだよと言われました。

何か意味はあるのでしょうか。私が考えすぎなのでしょうか。

乱文になってしまいましたが、なにか一言でもいいので、いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お浄土は「自他を越えて一つに溶け合う世界」

まずは、お父様がお亡くなりになりましたことに、衷心よりお悔やみ申し上げます。仏教は私たちに起る様々な出来事を運命論で説くことはありません。仏教は縁起によって物事をとらえます。ですので、どんなにふびんな死に方、または納得がいかない死に方であっても、それは様々な因縁によって引き起こされたもの(因縁生起)として受けとめます。また、生と死の関係を言えば、私たちの生(いのち)は、未来に訪れる「死」に向かって進んでいるのではなく、私たちの生(いのち)は、いつも「死」と共にある、と言うべきだと私は思っております。
さて、私が信仰している浄土真宗では、阿弥陀如来のお力(「本願力」と言います。)で、亡き人は悉く極楽浄土(仏の国、悟りの世界)に生まれると説きます。そこは、「一切のものが等しく、自他を越えて一つに解け合う世界」で、何の障りもなく、「青い花は青い光を、黄色の花は黄色の光りを、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っている」と『阿弥陀経』には説かれています。また、お浄土は「倶会一処(くえいっしょ)」の場、つまり、ともに一処に会う場とも説かれています。死後私たちは、一切消えて無くなるのではなく、先程述べましたように、一切のものが等しく、自他を越えて一つに解け合う世界に生まれるのです。
ところで、阿弥陀如来は私たちを極楽浄土という世界に導いてくれるだけではなく、そのお浄土からこの世に残された私たちを救うために、再び還らせてくれる働き(「還相(げんそう)」と言います。)を亡き人にお与え下さる、ということです。親鸞聖人は「一人いて喜べば二人とおもえ、二人いて喜べば三人とおもえ、その一人は親鸞である」と言い残して世を去られたといいます。またある人は「人生のきびしい日暮らし、いとなみの中にあって、先だっていった肉親を慕い、お念仏申すところ、そこにわが親は、わが夫は、わが子は還相したもうているのである。」と申されました。今生での別れは再び相まみえることのない決別ではないのです。人の死は避けることの出来ない人生の悲しみではありますが、その死が私たちに教えてくれる人生のあり方を顧み、再び故人と出会うことができる身になりたいものです。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

それをそう想うのは誰か

Qこういう突然の死は、父親の運命?だったのか。
A運命ではありません。
いろいろな状況や出来事や体調の変化などが重なってそうなってしまったのでしょう。
運命という根拠の無い都合のいい言葉で片付けてしまうことは無明を増長させるだけですのでおやめになった方がよろしいと思います。

Q父は、あの世という世界へいけているのか。
A
人が亡くなる事をあの世にいった、という表現をすることがありますが、ちゃんと亡くなられました。
だから、あの世に行ったという事は言う事ができます。
大切な事は、故人様が亡くなられた後の私たちの生き方が問われます。
「あの世に行ったのだろうか」という疑問がある、不安定な日が続くという事は、あなた自身に心残りがある、成仏していないという思いがあるという事でしょうから、本当に、あなた自身も安心するまで、仏の道を求めて頂きたいと思います。
「何を以て成仏したという事が言えるのだろうか」
「仏になるという事は本当はどういう事を言うのか」
私はこういう疑問があり、理解するまで求めました。
こういう疑問を明確に解決されると、自分自身がはっきりしてきます。
仏教に「こういう思想があるらしいから、どうやらそういうことらしい」というような曖昧な解決ではなく、我が事として真剣に考えてみて頂きたいと思います。
こじつけないこと。
こじつけは、純粋無垢なまっさらな出来事にあなたが色を付けて観ている世界です。
こじつけは物事を枉げて観る事です。
お父さんのご生涯に恥じない生き方、報恩の気持ちを持ってお父様が生きておられたらきっとお喜びになるであろう生き方をなさってください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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