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仏教では詭弁は

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仏教では詭弁にひっかからないためにどういう方法を教えていますか?

昔から詭弁を使って間違ったことを真実だと思わせようとしている人はいたと思うので、お釈迦さんは詭弁を見抜く方法を弟子に教えていたと思うのですが


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そこに救いがあるかどうか

言葉たくみに立派な事を言っても、救われる中身が無ければ死に禅、死に仏教です。
詭弁や、たくみな論、深遠な教理と称する立派な言葉を並び立ってたとしても、実質的にそこに救いが無ければ役に立たない教えと言えます。
明治の禅僧栴崖奕堂禅師は「仏魔同相の時、如何が真偽を見極めん」という公案を弟子たちに与えています。
仏と悪魔が同じ姿でやってきた。僧侶の姿をしているからといってもあてにはならぬ。
さてどうやって、その真偽を見極めるべきか。
先日たまたま、キリスト教系の信仰宗教が押しかけ布教にやって来られました。
口では立派な事を言われるのです。
毎月布教の冊子を置いていかれるので、当方のも目を通して頂きたいとお渡ししようとしたのですが、
彼らは聖書以外を読んではいけないという制約があるというのです。
本当にそれが神ならばそんな料簡の狭い制約、縛りが必要でしょうか。
洗脳を深めるための都合の良い教義と言えます。
もっと緩やかなキリスト教の宗派もあります。
それを見抜けなければ、神仏の格好をした魔であるかどうかが見抜けないのです。
健康食品と称する、有害物質もあれば、今やしょう油風調味料、みりん風調味料、酢もほとんどが醗酵していない、酢❝風味❞の調味料です。
世にはびこる教えも仏教テイスト(風味)、仏教フレーバー(香料)だけで、上記の❝風味❞だけで中身が無いものも存在します。
ラベルはラベル。
中身にきちんとした薬効成分があるかどうか。救いがあるかどうか。
詭弁はあくまで詭弁。救いのための方便として、用いられることはあるでしょうが、仏教のメインはあくまで本人が救われることですので、論や詭弁にはたして、救いとしての薬効成分のある仏の教えが内在しているか、どうかです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仏教以外の教えを「外道」と言います。

外道とは仏道の外ということです。
仏教から見れば、世の中に溢れるさまざま教えや格言は外道となります。
例えば「夢は必ず叶う」というような言葉。
確かにそのように背中を押されることは大切です。
しかし言っていることは真実ではありません。
老いたくないと願っても人は老いますし、死にたくないと願っても必ず死なねばなりません。

仏教はお釈迦様(仏様)がおっしゃる真実まことの教え。
外道は人が作った詭弁・嘘が多い教えです。
つまるところ、人が言うことは信用できないのです。
お釈迦様がどうおっしゃったかを聞くことが一番安心できます。

追記:おっしゃる通りですね。お釈迦様はもうおられませんし、現代は末法の時代なので悟られた仏様もおられません。ですので今は過去の仏様が説かれたお経に依るしかありません。そのお経の中には『真実経』『方便経』『偽経』があります。『偽経』は仏様のお経ではなく人が作った詭弁と言えるでしょう。どのお経がどれにあたるか、それが宗派の違いになります。何が真実で何が方便かは、教学的な見地による裏付けと信仰の上における理解が必要です。そして最終的には信仰の問題になってきます。やはり『私にとって○○は正しい』ということになってくるのが『見分ける』ということになるのかもしれません。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

釈心誓さん、いつも回答ありがとうございます。
しかし御釈迦さんが死んで直接聞くことができない今、どうやってそれが正しい御釈迦さんの教えを見分けるのでしょう?

丹下 覚元さん、いつも回答ありがとうございます。

なるほど、正しいかどうかではなくて役にたつかどうかを見るんですね。これなら自分にもできそうです。ありがとうございました。

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