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自分を愛する方法

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ここ最近、家庭でも職場でも友人関係でも自分は誰からも必要とされていないのでは?と感じる事があります。
常に孤独を感じるのです。

「自分を愛せない人は誰からも愛されない」という言葉を良く耳にします。
意識して自分にご褒美をしたりしますが、逆に虚しくなってしまいます。
自分の愛し方がわかりません。
どうしたら自分を好きになれるでしょうか?
宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

表向きの自分を愛すのではなく生命活動的自己を愛する

人間は能力や容姿で比較すると自分を愛せません。
生まれながらに恵まれたものを持っている人だけしか自分を愛せないなんて不公平でしょう。
AKBでも入れただけで幸せな人もいれば49人目でガッカリな人もいれば48人中以内に入れたと言ってもTVに映れるのは25人くらいだったりで、TVに出たと言ってもセンターの影だったり総選挙で7位以内に入っても不幸不運に感じる人すらいます。
要はその時「何をどう思ったか」でその人の「しあわせ観」が決まります。
人は思ったことに「なる」のです。
学校で先生に怒られて帰ってきた子どもに、それを思い出させるように親が何度も叱るとします。
本当は怒られたのは一回きりだったのに本人の中で何度も何度もリプレイして何度も何度も心をすり減らす。
それは不健全・不健康というものです。
そういうことを繰り返すと人は自分を愛せなくなっていきます。不幸を脳内LOOPさせるからです。
自分を愛するためには、まず自分を害する思いを控えること。
心というものをTVのディスプレイに喩えるならば、画面に自分を苦しめることを映さないようにすることです。
もしくは映っても評価、評論、編集、脚色しないこと。
自分の生命活動に触れてみてください。
すーはーすーはー…
息をしていますね。
眼はものが映ります。見えてくれています。
耳は音が聞こえます。聞こえてくれているのです。
鼻は香りを味わえます。新鮮な酸素を取り入れてくれています。
口もおいしいものを味わえます。今日もお命様を頂戴されたはずです。ああ、生きていてくれてありがとう。生きてくれてありがとう。…と自分に呼びかけてあげてください。
体は動かすことができます。
この生命レベルの感覚に親しむことで歩くことすら快感になれます。
風を感じるだけでにっこり微笑みを浮かべることもできます。
センサーがさび付いていませんか。
そんな方は坐禅会にお越しください。
眼鏡も曇っていなければ物はよく観えます。
PCもスマホも情報が多すぎなければ快適に動きます。
こころもおなじです。
自分を愛するとは、自分を愛そうとすることではない。
自分の誰とも比較のできない絶対的な命の働きに目を向け、その素晴らしい働きをしてくれていることに気づき、親しむこと。
すると、自ずから感謝や愛や慈悲が生まれてくるのです。
詳しく聞きたければお寺まで。 あんのん寺

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分を知る

はまちょさま

自分を大切にする前に、まず自分とはなにかを知るひつようがあります。仏教の根本であり、修行の向かうべき目標でもあります。
自分を愛する、大切にするということの裏には、この体をもった人だけでなく、身近な人々、世の中全てのものや人、全てを指します。つまり自分さえよければいいという考えではなく、他人も自分として大切にすることです。
それを心の底から納得するために修行をします。自分を大切に思えなければ他人をまず大切にしてみたらどうでしょう。たくさん愛を注いだらどうでしょう。それがまさに自分の有り様だと思いますよ。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

邦元さま

早々のご回答ありがとうございました。
「他人も自分として大切にする」というお言葉、まずは実践してみようと思います。
今は自分を癒す事が出来ない分、他人に目を向けてみようと思います。

丹下覚元 さま

ご回答ありがとうございます。
色々な事にまずは感謝なのですね⁈
元々ネガティブな人間ですから、直ぐには変われないとは思います。
が、アドバイスされたことを少しでも実践してみたいと思います。
座禅も体験してみたいです。

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