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人生に飽きてしまいました

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有り難し有り難し 16

はじめまして。
さっそくですが、人生に飽きてしまいました。

私は今19歳の女子、美大を目指していて
只今浪人二年目です。
愛知で一人暮らしをしています。
バイトも去年から続けています。
やることも、目標もあります。
ですが、もう自分の人生に飽きてしまいました。

はやく終わらないかな
何もしたくないな
どうやったら楽になれるだろう
そんなことばかり考えてしまいます。

もともと私は悩みを溜め込んでしまうタイプなのですが
それを周りに出さないが故、バイト先や予備校でも
強いキャラ、いじってもいいキャラが根付いてしまい
楽しく接してくれるのは本当に嬉しいのですが
たまに自分が本当に傷つくようなことも言われてしまいます。
自分が我慢すればいいことだし、空気を乱したくないし
何も言わずにいましたが
最近は受験がダメだったこともあり余計ダメージが大きかったのか
些細なことで酷く傷ついてしまい、情けないことですが
バイト中に泣きそうになってしまいました。

更に追い討ちをかけるように恋愛関係でも悩んでいます
去年から私のことを好きだと言ってくれていた方がいたのですが
その方は今大学4年で、同じバイト先。
そして彼には彼女がいました。
私はそのことを知っていたし、私自身もともとその人が別に好きではありませんでした。
しかし多くの時間を過ごすうちに私の方が彼を好きになってしまっていました。
ですが最近では彼女とうまくいっているのか、それとも勉強が忙しいのか
LINEも冷たく、バイト先での扱いは周りと同じで雑で…
なんだか裏切られたような、見放されたような、そんな気持ちで
本当に嫌で辛いです。
今までほとんど恋愛経験も無く信じ込んでしまった自分が情けないうえ
やはりちゃんと愛されることなんて私では無理なのかも
と思ってしまいました。
ついこの間姿を見かけただけで吐きたくなるような悲しみと苛立ちに襲われてしまいました。

こんなに一喜一憂するのももういやだし
同じ日々ばかりでつまらないし
信頼できた友達は今年から無事に大学生になることができ、
今は上京してしまい近くにいません。
なんだかもう今の自分の性格だと
どれだけ生きていても何も良いことなんて無いんじゃないか
そう思うと、もう、考えるのもめんどくさいです。
自分が弱いだけなのですが。
こんな小さいことで、すみません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの出す結論はそれではない。

人生飽きるのはまだ早いです。
大きな建物、広い世界に住んでいながらも、心が小さければ、それらを小さく、つまらないもの、台無しにしてしまいます。
その「小さくする心」は何によって生まれるか。
飽きた、イヤだ、つまらない、弱い、自分が口にしている言葉に目を向けてください。
そこにこそ涙するべきでしょう。
すべてを小さくしてしまっているではありませんか。
何かがキッカケとなって、そんな風に、すべてを小さいものにしてしまう様になってしまったのでしょう。
そのきっかけになった事というのは、実は、例のあの事が、
①「ただ、その事がそうあっただけ」なんです。
➁そこに、あなたは不運にも、あの事、その事を「自分を傷つけるように捉えてしまった」のです。
私は、学生時代に、はたの人から見れば、そんな風に悪くとらえなくてもいい事を、❝悪く❞とらえてしまったのです。
それは、本当に本当に、今考えれば、なにも悪くとらえるべきことではなかった。
ところ私は、それを「悪くとらえる事」をしてしまった。
それが、自らが傷つき、傷ついたという事の始まりです。
いつの頃か、私たちは、人や出来事、楽しかったはずのあの事を、悪しざまにしてきてしまったはずです。
何によって、私どもは、そのように悪くとり扱うようになっていたのでしょうか。
それは自らの「都合」なのです。
心の中に都合によって「闇」が生まれた瞬間を思い出してみましょう。
その数秒前までは、あなたの心は曇ってはいなかった。
自らの都合というマーラ=思いの雲があなたの世界を闇にさせたのです。
仏教の救いとは、その自らの思いの雲の正体を見抜き、思いの発生源、発生の根源を自ら知覚することです。それが悟り(覚)なのです。
私が出した結論は「思いを重ねる前の世界は輝かしい、美しく光り輝やかしい」です。
飽きるどころか、毎日が真新しいことだらけです。
すぐ結果の出せないことを、今すぐに結果を求める事をやめましょう。
それが、あなたの人生の最終結論を悲しい結論に行きつかせるのです。
それも、あなたが思いを発生させ思い通りにならんことを思い通りにしようとしているのです。
あなたの、都合が、あの事を悪いものにしてしまった。その瞬間を思い出してください。
もう一度、自分に負けてあげましょう。
ゼロになれば、やり直しはいくらでもできます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「人生に飽きる」という意味

小鳥遊さん、ご質問ありがとうございます。

明るいキャラの下には、いろいろな悩みがあるのですね。

受験の悩み、対人関係の悩み、恋愛の悩み。

こんなことを書くと、もしかすると反感を買うかもしれませんが、人生の悩みがつきないのは、当たり前かもしれません。

だから、人生は味わい深いのかもしれませんね。

あなたは、「人生に飽きた。」とおっしゃいます。

「飽きる」という言葉の元々の意味は、「充分に思う」とか「満足する」という意味です。

あなたは、本当の意味で、「人生に飽きた」のでしょうか?

「人生に飽きる」ことを心に置いてみてはいかがですか?

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