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伝えるべき?

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有り難し有り難し 19

お世話になります。

私は11年前に精神科にて、プロフィールにあります病気だと診断されました。
それより4~5年前から仕事が出来なくなったり、人を避ける様になったり、とうとう引きこもり状態になり、もしかして病気かも?と感じて受診したのがきっかけです。

子供の頃から発症していた様で、家族や学校で、原因が原因なので、誰かと時間を共にした記憶は一切ありません。少しの時間、1人になったときの記憶、特に犬や猫たちと過ごした記憶が、多少残っています。

成人してからも、例えば仕事で名刺交換やお話しをして、次にお会いしたときには、お会いしたことさえ覚えていません。
例えば母親をお花見に連れて行き、植木を買ってプレゼントし、次の月に「あんたに買って貰った植木が…」と言われても、買ったどころか、花見に行ったことさえ覚えていないなど・・人と接するときは、必ず(カッコに書いた)状態になる様です。

義父と父は他界していますが、義母(昭和2年生)と母(昭和12年生)が高齢で、精神科というものにショックを受けるのでは…という判断から、(特に母親は、原因が息子と自身にもあるため)、主人と、一緒に育った従姉以外には話していません。

今は離れて暮らしている義母ですが、介護が必要になったときは、自身がやってこられたので、当然私に頼る予定でいます。
母親も、家族で複雑な事情があり、末っ子の私に頼る気持ちでいます。

受診し始めた頃、主治医は私に「家族と縁を切った方が良い」と、話されたことがあります。
また、長い治療中に「家族となるべく接しない様」と仰ったこともあります。
それは、私の調子がとても悪くなるからです。

そこでご相談したいのは、まず、高齢の2人に病気のことを伝えるべきかどうか?

介護が必要になったとき、どちらも、嫌っている施設に入って貰うのは良いことか?

です。
ご教授いただければ、嬉しいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの人生はあなたが主人公です。

ご質問読ませていただきました。
今回は、仏教的見地と同時に、
精神科ソーシャルワーカー(PSW)としてお答えいたします。
医師の先生がお話の通りだと思います。
記憶が飛んでしまうというのは、
おそらく、許容量を超えるものが入力されて、
脳の回路がオーバーフローしてしまっているんです。
電気を使いすぎると、ブレーカーが上がって電気が切れますよね。
交通整理ができなくなって、これ以上入ってこないでと、
情報が脳に入ってくるのを拒絶してしまうと思うんです。
それが記憶が飛んでしまう現象となって現れる。
重いものを急に背負ってぎっくり腰を起こし、
立てなくなってしまうのと同じような状況ですよ。

ですから、「無理をしない。」これが原則ですよ。
とにかく、無理しない、焦らない、駆け出さない。
ああ、きついなと思ったら、一歩引くんです。
深呼吸して、私は大丈夫!!だと
気持ちを落ち着かせてください。
メンタルな疾患は、よくなるまで時間がかかります。
幼少期のトラウマが、ずーと付きまとうというのは、
よくあることです。
衝撃的なことって、何十年たっても、鮮明に思い出せたりしますよ。
そういう前提で考えると、お母さま、義理のお母さまの介護は、
無理かなと思います。
無理してあなたの具合が悪くなれば、ほんとに共倒れです。
無理は禁物ですよ。
介護は物理的な負担だけでは済みません。
精神的なストレスや負担を負うころが多いのです。
どうか、ご無理をされず、施設にお預けすることをお勧めします。
孝行心からの罪悪感もあるかもしれません。
仕事でヘトヘトに疲れきって、やっとの思いで、電車の椅子に座り、
目の前におじいさんが来られても、正直、タヌキ寝入りを決め込んだ
ことがあります。
こころの中で、「ごめんなさい。」、その一言で、
許されることもあるのではないでしょうか。
まずは、あなたご自身が、あなた自身のために、そしてご家族のために、
明るく、元気でいることですよ。
あなたの人生は、あなたが主人公なんだから。
あなたとご家族の皆様のご多幸をお祈り申し上げます。

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有り難し
おきもち

浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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あなた自身の健康を大切に。

私は、あなた自身の健康を大切にしていただきたいと思います。
病気について家族に伝えるかどうかは、主治医の意見を重視してはどうでしょうか。
あなた自身のために必要なことを、やっていただきたいです。

あなたは病気なのだから、お母さん達のお世話を十分にできないのは仕方ないことです。
お母さん達に施設を利用してもらうのも、仕方ないと思います。
それを責める人がいるとすれば、よく事情を知らないだけでしょう。

ただ、介護サービスにも色んな種類があり、かなり寝たきりに近い人でも自宅でサービスを受けながら暮らす方法も広がりつつあるようです。
ですから、昔みたいに要介護=施設、ではありません。
お母さん達が住み慣れた地域で暮らせるような介護サービスが、あるかもしれません。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

願誉浄史 様

難しいご質問に、ご回答いただき、ありがとうございます。
私のことを大事に思って下さって、とても嬉しく思います。

久しぶりに、嬉しいという感情に包まれました。
同時に、ホッとしている私もいます。

まずは自分のことを考えても・・・大丈夫なのですね。
ずっと、誰かのため、母のため…と、考えてきました。

人間厭悪、人間は裏切る動物だと根底に刻まれ、人間界でものすごく生き辛く、そのためストレスも半端なくて…。

その上介護となると、殺して自分も死を選ぶしかないのかも…と考えています。

少し、その考えがほぐれたかも知れません。

ありがとうございました。

願誉浄史様も、御身大切になさり、悩める皆様のためにお力を貸して差し上げて下さいね。

感謝。

*.....*.....*.....*.....*.....*.....*

三浦康昭 様

ご回答、ありがとうございます。

精神科ソーシャルワーカーでいらっしゃるのですね。
整骨院、医療福祉関係の仕事、知的障がい者施設の仕事…と書かれてあり、気になっていました。
お坊様として、そしてPSWとしてのお答え、とてもありがたく思います。

記憶は、他者と接するときは人格が変わっているので、私の記憶に残りません。
それは子供の頃からで、もう慣れてしまい(笑)苦に感じなくなっています。

精神疾患のことをご理解いただいた上でのご回答は、とてもありがたく、参考になりました。特に、

>こころの中で、「ごめんなさい。」、その一言で、 許されることもあるのではないでしょうか。

このアドバイスは、これからのことを考えると苦しかった思いが、『仕方ないのだ…』『それで良いのだ』と思うことができ、楽になれました。

『心の中で、ごめんなさい』…素敵なお言葉です。
心に刻んでおきます。

私の人生は私が主人公。
考えたこともありませんでした。
生まれてきたことを怨み、生きていることを否定し、自身の存在をなくすことばかり脳裏に浮かび、そんな私が主人公でも良いのですね。

主人公なら、もう少しだけ、光を求めて良いのかも知れませんね。

本当に、ありがとうございます。
1度、三浦様の接骨院かお寺さんへ、伺ってみたくなりました(笑)。

三浦様も、お身体にお気を付け下さり、悩める…特に精神を病んでいる皆様のために、ご尽力されていただきたく思います。
必要とされている方が、沢山いらっしゃる様な気がします。。。

本当に、ありがとうございました!

「心構え・生きる智慧」問答一覧

地元で居場所がない

地域で嫌われ者です。 以前の職場のトラブルで悪評を広められています。初対面なのに嫌な態度を取られたり 、仲良くなった人に突然態度を変えられたりします。 そのことが原因で親戚からも嫌われ、親戚と親しくしている人達からも嫌われるようになりました。 また子供の同級生の母親の1人から嘘の噂を流され、また偶然の誤解や間の悪さが重なってやはり皆から嫌われ連絡を絶たれるようになりました。 この母親は、私とトラブルになる前に別の親子を異常者に仕立て上げて転校させてしまったことのある人なので、気を付けていたつもりでしたが、子供同士のトラブルをきっかけにターゲットになってしまいました。正直今でも悔しいです。 自分にも悪いところがあったのだと思い、ここ数年、自分のこれまでを色々反省し、できる限り変えるように努めてきました。 そう心がけるようになってからは、毎日接する職場の人達との関係は以前より改善し、仲良く働くことができています。 それでも、新しく出会った人に、過去の噂で急に拒否されてしまうと落ち込みます。 自分が少し変わったくらいで、人から見方を変えてもらうことを期待するのは虫のいい話なのかもしれません。 一度地域で悪いイメージが付いてしまうと、もう普通に暮らすことはできないのでしょうか。 知り合いが誰もいない所へ行って一人で暮らしたいと思いますが、子供や仕事のこと、経済的なこともありそうもいきません。 死にたい気持ちと戦いながら日々をやり過ごしています。 これからどのような気持ちで生きて行ったらよいのでしょうか。希望が見えません。

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嫌われたくない「いい人」の自分がつらい

嫌われたくない、という感性が幼少期から強く根付いており、34歳となった今でも付き纏っています。 仕事、友人、家族に対して常にいい人でいようといます。 自分が気付き手を差し伸べられることは率先して進め、助けを求められれば断ることはありません。 それによって自分自身に充足感を感じることもありますが、 「いい人」「頼りにされている」自分に疲れているように感じます。 仕事を進めて行く上で何かトラブルがあり、頼られるのは自分ですが、「それは別に今自分じゃなくてもよくない?」「なぜ自分より暇そうな上司に頼らないのか」 と、不満を感じながらも笑顔で対応してしまいます。 また、仕事の進捗にほころびを見つけるのが早く、自分がそれを根回しやフォローなど処理しようとする都度に、なぜこんなことも他の人間は気づかないのか、やらないのかと憤りを感じます。 友人との付き合い方もそうで、気の乗らない飲み会や旅行を断るのが苦手で「世話になったから」「恒例だから」と滅私し付き合ったりすることもしばしば。 家での過ごし方では、結婚2年目で妻と二人暮らしですが、共働きのため基本的な家事や買い物は自分がやっています。 妻が家事ができないわけではなく、 これは元々は妻に働かせてしまっている甲斐性のない自分のせめてもの罪滅ぼしだと自分で決めて進めていました。 しかし時折休日に1人で出かけて帰ってきたら何もせずにただベッドで一日中ゴロゴロとしている妻を見ると、自分で決めたことでも少し腹が立ち、心身ともに疲れを感じます。 自分自身振り返ると冒頭でも書いたように、「嫌われたくない」という感情があまりにも根付きすぎおり、 間違っていることを間違っている 嫌なものは嫌だ そう言えない自分の弱さが招いた種だと感じています。 嫌われたくない自分をやめ、勇気を出して行動するか そのままの自分で、考え方を変え、頼りにされている自分を誇りに思えるよう努力するか どうかご助言をいただきたいです。

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現実と思い

こんにちは。 いつもお世話になっております。 先日、約2週間ほどタイとマレーシアに行ってきました。人生初の海外旅行です。渡航前にトラブルもありましたが、無事に体調も崩すことがなく日本に帰国することが出来ました。 タイに行った際、いろんな有名な寺院や博物館などに行き、お釈迦様の人生を学んだり、出家や悟りについて勉強したりしました。ある有名な寺院に行き、エメラルドグリーンに広がる屋根を見ながら坐禅を組んで眺めていました。すると、不思議と心のモヤモヤや悩みが一気に吸い込まれているようで、気づけばずっとボーッとしていました。 悩みとかがなぜかちっぽけに思えて、健康がどれだけ素晴らしいものか過去のことを思い出しました。昨年大怪我をしてしまい、毎日辛く、後悔と健康体ではない自分の体に苛立ちを感じました。でもまだ跡はあるけれど少しずつ治ってきた自分の体を見て、治る力があるということ、辛くても乗り越えることができたこと、この力があるっていうことは、怪我は健康状態でなくても、あるいみ私自身の体や心は健康だったのではないかと、坐禅を組みながら感じました。こんな気持ちになったのも初めてで、正直タイに行って、仏教に触れる度、不思議な気持ちになるというか、変な言い方になりますが、お釈迦様はいらっしゃるんだな、仏様は本当にいらっしゃるんだなと強く感じる場面が多くありました。その度にパワーをいただいたというか、僧侶の方にもご祈祷していただき、それ以来、気持ちが変わったといいますか、長旅で心も体も疲れているはずだけど、生きる力がたくさん漲った感じがします。この瞬間が本当に幸せに思え、旅行中何度も思いました。人生、様々なことがあるけれど、この旅行先での最高の幸せに出会うための備えって、健康であることなんだなと何度も感じました。 日本に帰国したあと、待っていたのは人間関係の悩み。生きる力は未だにたくさん漲り、むしろ挑戦したいことばかりでうずうずしています。だけど、友達に気を使うことが辛くて、朝も辛いなと呟きながら出発しました。 明日も会わなきゃ、大丈夫かな、何かあったのかな、ちゃんと話の輪に入れてるかな、常にある友達といると思います。 1人になると、なんでこんなこと思わなきゃいけないんだと我に返ってしんどいな、辛いなと嘆くばかりです。 こういうとき、どのような心構えで過ごしていけば良いのかと思います。

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感謝って…何だろう???

私は四半世紀生きてきて、未だに感謝の心というものを自分の中で掴みあぐねています。 食事の前に手を合わせたり、隣人に挨拶をする事など、人間の習慣には身の回りの物に対する感謝を表現する手法が数多く存在します。自分も、そうした習慣を子供の頃から自然な所作としてずっと実践しています。 しかし、それが自分の中で感謝という実感に結びついた事が未だにありません。手を合わせる事は出来ますが、心がついてこないのです。 三食満足に食べられる事。人の悪意に晒されずに穏やかに過ごせる事。雨風をしのげる家屋の中で寝られる事。 無くなれば間違いなく困る物は幾らでも列挙できるのに、それらが享受できるこの環境が幸せである、という実感だけが何故か根付いていないのです。 「周りの物に感謝して生きなさい」という文言を散々聞いてきたはずなのに、それが自分の中で活きてこない事に焦燥感を覚えています。他の方が自然に体得している事が、20年立っても出来ないのは何故なのか。それが未だに分からないのです。 日常に散らばっているはずの幸せの源泉を見失い、未だに足るを知る事ができない今の自分は、間違いなく救えない存在です。 もしかして、このまま全て失って後悔だけが残るまで、自分は周りの物に有り難みを感じる事ができないのではないのか?そんな事を考えて虚しくなる日々が続いています。

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縁切りは可能ですか?

先にご相談させていただいたチケットを持ち逃げされた件の続きになります。 先のご回答で、畜生にやられたと思うことで気持ちがとても楽になり、これからできる限り自衛して生きていこうと思えました。本当にありがとうございました。 チケット自体はもういいのですが、相手に個人情報を抜き取られたのではないかと、不安が残っています。 先の相談にも書いたように、渡したチケットは電子チケットで、チケットの表示には会員ページにログインが必要になります。 そのページは電子チケットだけではなく、会員の個人情報(名前、住所、電話番号等)の閲覧も可能です。 (書き換えが不可能なように事前に準備はしており、パスワードは相手が会場へ入場直後に変更したので、それ以降に見られた可能性はありません) 不安なのは、個人情報を抜き取られてしまったのではないかということです。 私が推している事務所のファンクラブは、入会すると登録住所に会員証や会報が届くシステムがありますが、中には届かないグループがあり、例え郵送される紙のチケットが当たったとしても、登録住所と郵送先の住所が異なっていれば、赤の他人に自分の住所が使われていてもまったくわからないのです。 厄介なのは、同じグループで二人以上が同一住所を登録住所にしていると、ほとんどの場合一人しかチケットが当たらない点です。 (事務所側から明言はされていませんが、ネットの情報や友人知人の話、自分の経験からあながち勘違いでもないと推測されます)。 グループのファンクラブに入っていれば、ほとんどの人はコンサートを申し込むでしょうし、ましてや詐欺師なら、抜き取った個人情報で転売目的で申し込み、私の名義が当たらない事例も考えられます。 前置きが長くなりましたが、顔も知らない、SNSで文字のやり取りをしただけ、現在音信不通の相手と縁を切ることは可能なのでしょうか。 具体的には縁切り神社に行きたいです。 縁を切る=個人情報を悪用されない、と簡単にはいかないとは思いますが、できる限りのことはしたいです。 ただ縁切りは中途半端な状態でやると自分に跳ね返ってくるとも言いますし、この場合はどうなるんだろうと心配です。 こんなことになるなら関係ない住所に変更しておけば、と後悔が募るばかりですが後の祭りです。 仏教の考えとは少し異なるかもしれませんが、見解をお伺いできれば幸いです。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

自分を被害者だという思い込みから出れない

お世話になります。 私は、胎児の頃に父の大声のトラウマを受け、バーストラウマという状態を認定されていて、要は物心ついた時から、精神疾患持ちです。 また、性被害などにあった経験もあり(自分なりに乗り越えてきました)、イジメや虐待など色々辛いこともあり、病に対しての不服が強く、不平等感が強く、すぐに人と比較し、私はやっぱり不幸だ!というわがままが多いです。 結局悩んでることは、無いものねだりです。 無い物ねだりがとても強く、あ在るものを見れないです。 ですが、在るものを気づく頭や能力はあり、「でもこれがある」と頭では分かります。ですが、それを信じる力がないです。 もう無いものねだりは疲れました。この生き方をいい加減やめたいです。38年、無い物ねだりを、重箱の隅をつつくように不幸ばかり見てきて、疲れました。いくら幸せがあっても、これでは常に不足の生き方です。 あるもの見ればいい→それは出来ない、というのも疲れました。 いくら生き方を変えよう!としても、変わりません。私は不幸だ!誰より不幸だ!という悲劇のヒロインもやめられません。幸せだと満足だと、ほぼ感じられず、何をしても不服です。 精神疾患は、解離性同一性障害、複雑性PTSD、躁うつ病など色々あります。ストレスから指定難病にもなりました。 お世話になってる精神科医もいて、そこの施設にも通っていて、そこにもナース、カウンセラーさんもいて、何かあるとすぐ相談に乗ってくれますが。 「ぐりさんには、もう教えることはありませんよ」と言われてて医師からも似たようなことを言われ、多分治療はもう十分です。 また努力家な自分ですがそこに満足できず、何冊も本を読み、人に相談をしたら書き残し、自分と散々向き合い、努力はしても、満足できません。在るものをみる。それがどうしてもできません。 過去への執着をへらす、色々マインドフルネス等もしてます、ですが、どうしても苦しくて死にたくて仕方ないのです。 ですが本当は幸せ者なのも頭では分かってます。 大切な人達も健在です。何より大切な事です。居場所もあります。 もうこれ以上頑張るのも疲れました。 私はこれからどうしたらいいですか?どうしたら不足、不安、不満に覆われず生きれますか? 拙い文書ですいません。よろしくお願いいたします。

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回答数回答 1

推し活をはじめ、この世の因果応報について

質問としては、因果応報は本当にあるのか?ということです。 長文且つややこしい内容で失礼します。 以前から推し活について、このサイトでご相談しておりますが、この度大好きなアイドルのコンサートに行けることが決まりました。 私は抽選で外れたのですが、私の事情を知っている知り合い(Aさんとします)が当選して、私をコンサートに誘ってくれたのです。 Aさんとは当該アイドル以外にも、共通の好きなアーティストを通して日々仲良くしていたところ、今回のコンサートに誘われました。 この3年間は本当に辛かったです。 2021年に別の知り合い(Bさんとします)が、私を当該アイドルのコンサートに誘ってくれて、条件は次回以降のコンサートでチケットのお礼をする、というものでした。 そして2022年に私はコンサートチケットを応募しましたが、落選したことをBさんに話すと一方的に喧嘩をふっかけてきて、挙句にはBさんが私のために当てたチケットを勝手に譲渡していたことが分かり、私はコンサートに行けませんでした。(その後、Bさんとは縁を切りました) 去年は私が当選したのですが、病気にかかりコンサートに行けず、結局別の人(初めて当該アイドルのコンサートに行くことになった)に譲りました。 後日談にはなりますが、知り合いだったBさんは、あれから第一希望の場所の公演チケットが全く当たっていません(住んでいる地元じゃなくて、遠方ばかり当選)。 さらには、2021年に私と同じくチケットのお礼を条件にコンサートに誘われた別の人(Cさんとします)も、3〜4年連続落選でチケットのお礼が出来ていないとのことです。 冒頭のAさんはB,Cさんとは赤の他人で、2023年から私と仲良くしている状況です。 たくさん悲しい思いをして、悔しくて堪らなかったけど、こうして思いが報われたのが純粋に嬉しいです。 内容がまとまっていなくて、バラバラで申し訳ございませんが、どうかご回答をお待ち申し上げております。

有り難し有り難し 13
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ