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自分のやっていることに自信が持てない

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私は何故か、自分の行動に自信が持てません。

例えば、少しでも相手の顔が曇ると、「怒らせちゃったかな?」と、心配になります。

そして、私には憧れの先輩がいるのですが、その先輩は専攻楽器、歌、作曲と何でもでき、もともと私は歌にも興味があったので、専攻楽器と合わせて来年から頑張ろうと思ってました。

しかし、「それって〇〇先輩の後継ぎ?」と笑われて、違うと反論したのに、最近「そうなのかなぁ」と不安になってきました。

さらに、私は行きたい大学があるのですが、それは学費が冗談抜きで高く、奨学金制度を利用しないと手の届かない金額でした。

兄も私立高校・現役私立大学生ということもあり、私も私立高校ということもあって、そして私は習い事にかなりの金額がかかっていたため、ためらってしまいました。
というわけで、父の方に相談すると、「心配しなくていいよ」と言われ、少し安心し、固くそこにしようと決めました。

しかし、母は反対し、そことは違う、国立の大学を勧めてきました。

バイトもダメ。母は音大卒なので、大変さはわかってるはずなのです。

その学校はレベルが高すぎて高望みとしか思えず、納得しませんでしたが、現実は重く、固かったはずの決意は揺らぎ始めています。

そういえば、夏に開催されるセミナーに出たいと相談したときも、父は快諾しましたが、母が「大学のお金がなくなるからダメ」といわれ、泣く泣く諦めました。

やりたいと言ったことには、協力すると言っていたはずなのですが。

金銭面などで親に負担をかけたくないのは強く感じてますので、バイトをしてでも進路に進みたいと強く望んでますが、バイトも禁じられたため、もう進路も諦めるしかないのかな、と思い始めてます。

恋愛だってそうです。
私は結婚願望はありますが、今片想いの相手は彼女持ちということもあってか、思いを伝えようとは思えず、「彼が幸せなら全然大丈夫。でも危ないときは命捧げてでも守る」という考えをもっているのですが、友人には「もったいない」などと言われ、母には「それはそこまで好きじゃないということ」とまで言われました。

違うとおもってても、そうなのかなぁと思い始めてます。

その他もろもろ、自分の言動、思想に自信が持てません。

私の意志がその程度なだけですか?
ただ意志が弱いだけなのでしょうか?

文が乱れたことをお詫びします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっと単純に考えてみましょう

自分の行動、思想、その他もろもろに自信が持てない。
自信が持てないという事をもう少し具体的にしてみましょう。
言動に自信がもてない。
グラつくという事でしょう。ブレるという事です。
「お前大丈夫か!」
「…はい!」
ここまでならOKなのでしょうが。
「本当に大丈夫か!?本当に本当に今のままで大丈夫か!!」
と、ツッコまれると、
「…ウッ…。」
と尻込みする。躊躇、ためらいが生じる。
それは相手にしているものが自分の想念だからいけないのです。
自分の想念があれやこれやと👻おばけのような思いを巡らす。
最悪の事態を想定する。
自分を苦しめる、自分を揺さぶる思いを生みだす。
思いが出ているのは何処ですかい?
あなたの想いの中であって、あなたの心の外側にはナンもないじゃろうに。
ここわかるかな?❤
自分の外に恐怖心ってないってことを見破るとイイです。
物事はいつでも単発でそこで終わっている。
単発で終わらせればブッダ、覚者と同じです。
ところが俗人は引きずる。付け足す。あらぬことを想起する。
そこに問題がある。
でも、その問題に気づいたならば、それをやめればいい。
余分なつけ足し、二の次、二の句、二の矢、セカンド・マインドを付随させない。
「大丈夫か!」
「はい。」
それ以上何も想念を付随させないことです。
自分の👻想念に負けずに、事実に親しむことです。
禅宗の修行の坐禅は、想念や考えごとではなく、事実を生きることです。
あなたは事実の後に「追いがつお」のように、想念のダシを追加しているだけです。
自信がないという事の原因はただそれだけ。
後は気づいて、実践あるのみ。
深めたければ親御さんと一緒に坐禅会にどうぞ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

んげ かくげん様

ありがとうございます。
単純化して考えればいいのですね。
これからはそう考えるよう心がけます。

坐禅会ぜひ行きたいです。

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