喪失感が半端ないのです。
先日、実家の祖父が亡くなりました。
10日前までは元気だったので、まさか死ぬとは思ってもいませんでした。
祖父が亡くなってから、あの時病院の送迎してあげてたらな…とか、こうなるんだったらもっと大切にしてあげたらよかったと後悔ばかりです。
祖父が私のことを気にかけてくれていたことも、亡くなった後に親、親戚に聞きました。
学生の頃も、学校まで送迎してくれたり、辛いときも味方になってくれたり、大学受験に北海道まで飛行機に乗ってついてきたり、運転免許をとった時は運転の練習に付き合ってくれたり。
思い返すと、私にはとても大切な存在で大好きな存在でした。
祖父の最期も見とりましたが、まだどこかに生きてるんじゃないかとか思ってしまう自分がいます。
毎日泣いても祖父の死を受け入れることができません。
どうしたらこの気持ちは癒えるのでしょうか。教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ほとけ様になるのです。
こんばんは。お祖父様を亡くされたとのこと、私も40年近く前になりますが、その時のことはよく覚えております。
お葬式はされましたか?その時のお坊さん(か宗教者)は何か言っていませんでしたか?
日本では宗派の色が強いので、それぞれの宗派で考え方は若干異なるのですが、恐らく「ほとけさまになるのです」はみな共通であろうと思います。
人間としてこの世界に生きているということは、いろいろと苦しみがあります。苦しみとは、「思い通りにならないこと」です。大人であれば「思い通りになるのは、願ったことの10%以下」であるのは経験上ご存知であろうと思います。いろいろと心に浮かぶ「こうしてあげればよかった」は、「思い通りにならなかった」事たちでしょう?
しかし、亡くなってほとけさまになるということは、この制限から離れることです。生きている人間の持っていない神通力をいただき、(先輩の)仏様の近くで修行を積み、現世に残る私たちを見守って下さる。そんな関係性の変化を「ほとけになる」と表現していると思います。
毎日泣くだけでは、恐らく時間が過ぎていくばかりでしょう。時間が薬となって悲しみを和らげてくれる面はあるでしょうけれど、坊主としては積極的に「お祖父さんの思い出や生き様を、自分の人生に活かす」ことを考えて戴けたらと思います。
「今の私を見て、お祖父ちゃんは何て言うかしら」「私に接してくれたように、他の人にも接することができるかしら」「お祖父ちゃんが大切にしてきた事柄は、私にとっても価値あるものかしら」そう考えていくことで、自らを引っ張る先輩として扱うことで、きっと喜ばれるのではないかと思います。迷った時、先達として考えるヒントをくれる。それはまた、貴女の中でお祖父ちゃんが生き続けているとも言える姿ではないでしょうか。
世の習いごとです。
こんにちは、あんずさん。
芥子の実の話
若い娘は幼くして死んだ我が子を抱えて、狂ったように町中を治せる者はないかと探し回った。冷たくなった子供を抱えた女を、町の人が不憫に思いお釈迦様の所に行くように諭した。
お釈迦様はその様子をみて「女よこの子を治すには、芥子の実がいる。街に出てもらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、一度も死者の出ていない家からもらって来なければならない」。女は早速街に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったが死人の出ていない家は一軒もなかった。ついに、彼女は芥子の実を得る事が出来ずにお釈迦様のもとに帰った。
お釈迦様の静かな姿を見て、その真意を悟り、その子をお墓に埋葬した。
あんず様、祖父の死は、悲しいですが世の習いごとの一つです。
生きるという事は死んでいく事。
では、あんず様、授かった命をどう生きて行きますか?。
お爺ちゃんの最後の教えですよ。
泣くだけ泣いたら、前を向いて!。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。お葬式は今日です。回答読んで少し気持ちが落ち着きました。祖父が大切にしてきたこと、私の人生に活かしていけるように頑張って生きていこうとおもいます。
意泉院さまコメントありがとうございました。
祖父が亡くなったように、いずれは私の父、母、兄弟、私にも死は訪れる。祖父にしてあげられなかったことを父や母にしてあげれるように前を向いて頑張っていきたいとおもいます。