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旧友を羨んでしまう

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久しぶりに質問させてもらいます。
ここ最近、旧友のtwitterやFacebookを見ていると、「自分より楽しそうだなあ…。」と羨ましくなり、へこんでしまいます。
(だったら見なければ良い話なのですが…)
自分自身友達を作るのがあまり得意なタイプではないだけに、どうしても自分の生活と比べてしまいます。 SNSだけでその人の生活がわかるわけでもないし、気にしない方が良いと思うのですが…。
もっと人を羨んだり、自分の現状に悲観したりせず、自分らしく生きていきたいです。

どうしたら、「人は人、自分は自分!」と思えるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を生きる 真実を生きる

ドラマ「心がポキッとね」の山口智子さん扮する女性のように、365日ある中で悪いこともあるにもかかわらず、きらびやかな所だけをカシャカシャ切り取って、さぞかし、いつも楽しいことだらけ~♪のようにアップしているようなものです。
裏では、本当はアップできないしょーもない暗い事だって沢山あるのに、人はそういうのはアップしないのだそうです。そういうウラの面も想定して憐れんであげてください。ひょっとしたら、病んでるからこそ、欠所かくしでアップしているという哀しい行為なのかもしれませんよ?
その背景を想定して同調してみましょう。そして、とりあえずトコトン、そういう外部情報をシャットアウトする。一日すらそれをしたことが無いのでしょう。
情報にばかり心を注ぎ過ぎていることがいけないのだと思います。
そうすると心って、相手にする世界が、A現実の世界ではなく、B頭の中の情報の世界を相手にする様になります。
これって、実は不健全な状態なのです。
人と会っていながらも、脳内データ越しにものを見るようになるからです。
ニュースの報道局が他局の情報と自分たちが掴んだ情報とで、競り合っているようなものです。
純粋に、目の前の真実を楽しめばいいのです。
報道局でもないのですから情報化させたり、競い合わなくてもいいのです。
比較したり、競争したりが中心で、目の前にリンゴが実っているのに、くだらないことを気にしてどんどん落っこちてしまったら、地面に落ちて傷んでしまいます。
ネット断食、IT断食という言葉がささやかれていますが、禅でも情報を扱うな、と言っています。
情報ではなく、真実に生きろ、と。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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