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周囲との価値観の違いについて

回答数回答 3
有り難し有り難し 29

私は広く浅くの友人関係が心地よく、1人で過ごすのも苦ではありません。

大勢でいることが嫌いなわけではなく、大勢でも1人でも自分なりの楽しみ方を見つけています。
1人で過ごすのは楽しいこともありますがこれまで生きてきた中で信頼していた人に裏切られたことから避けるようになったことも原因の1つです。
そのためなかなか人に心が開けず、周囲から非難を受けることがよくあります。

話し合えば「言い返したいだけに聞こえる」や「言い方が強い」などと言われることもあり人と交流がうまく取れないでいます。
腹を割って本音を話し親しい友達を作り行動を共にすることの方が良いことだとはわかっています。
しかし私がそれをした時に自分で自分に嘘をついているように感じてしまい自己嫌悪になってしまいます。
私は今のままの行き方を続けていけばいいのか、自己嫌悪と戦いながら生きていけばいいのか、どうぞご意見お聞かせください。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうか思いやる心を忘れなく

拝読させて頂きました。周囲のご友人関係についてお悩みなさっておられるのですね。人との関係性はなかなか難しいですよね。
私の経験から申し上げますと、本音を語ってお互い腹を割って話す事それは良いとは思います。確かにそれによって相手を理解しやすくなります。
ストレートに本音だけ話せばいい訳ではありません。本音がポロリで不用意な配慮に欠ける発言によってどなたかを傷つける場合もあります。また自分の浅はかさによって大きな間違いのもとになることもあります。
人の真意も表面ではわかりません。本音では通らないこともままあるのですから。
大切なことは自分に嘘偽りをいう必要はないにしても、相手の方の気持ちを考える力そしてそれに伴う発言が大切です。相手の心を傷つけてまで言っていいものではありません。また本音だから正論だからと人に押し付けていいものでもありません。
大切なことは自分そして相手の心を思いやりながらご自分の考えをまとめてそして心からお伝えなさることかと存じます。
あなたがこれからたくさんのご友人と心から打ち解けて仲良く共にご成長なさって頂きます様に心から神仏にお祈りさせて頂きます。どうか思いやる心を忘れなく。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

思ったことはなんでも言っていいわけではありません

腹を割って話す。思ったことを話す。そんな場面では、感情は置いておきます。我を前に出したら嫌われるに決まってます。
腹を割って話す時には、冷静に事実のみを話す。淡々と、そして相手が傷つかないように。みんなそうして、うまいこと生きています。

苦手だと思う相手に、あなたのこと嫌い。と伝えても、なんにもなりません。そのことはそっとして置いてお話をするのが大人です。

どんなに仲の良い人であっても言っていいこと悪いことがあるでしょう。親しき仲にも礼儀ありなんていう言葉はそんなところから来ているのではないでしょうか。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

布施というはへつらわざるなり

人は布施というとお金の事だと思う人が大物ですが、布施というのは相手にとってためになる、利益(りやく)になる「行い」のことです。
存在しているだけでも自然界から様々な恵みを頂いています。
あなた自身が存在しているだけで、誰かへの布施になっています。この質問も誰かへの布施となります。
もしそれを言葉でするのであれば、相手の立場や肩書を恐れず「へつらい」なしに努めること。
私も言いたいこと、申し上げるべきことはへつらいなしに申し上げます。
嫌われる事もあります。
相手の事を思えばこそ、真実を言ってしまう事もあります。
相手に言葉を発するのも布施です。
現代でいうリップサービスとは違い、相手にとって本当に為になることを申し上げること。
互いに同じ時間を共有している以上、そこを損なわせるような発言は慎むべきでしょう。
道元禅師は3回考えてから言葉にするようにと示されております。
相手に適した表現、相手に伝わる表現、相手に受け取りやすい表現、相手を思いやるものの言い方、相手がより良くなっていくような表現方法、これも布施と言えましょう。
あなたのものの伝え方が仏法にかなった「布施」になるように心がけてみてください。
ここでいう仏法とは、相手の心を損なわない、きつくならないもの言い、冷たく攻撃的にならない伝え方です。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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