人間って?
もちろん、自分も含めての話なのですが、人間って愚かだと思われませんか?
自分たちの欲望を満たすために、地球の限りある資源を好きなように使い倒し、環境を破壊している現実。
地球の命が永遠のものとでも思っているのでしょうか?
地球こそ、人間を産み出した母、言うなれば神だと思います。
その地球(母)の苦悩など全く考えず、欲望の思うままに行動し、うまく行かないと、苦しみ、嘆き、悲しむ。
本当に、お釈迦様は、そんな愚かな人間を助けるために、仏教の教えを広めたのでしょうか?
授かった命を、自から捨てることは良くないことだと判っていますが、極端かもしれませんが、視点を変えると、死を選ぶことは、自分が使う予定であった、地球の資源を別の人に捧げることになり、これこそ、究極の人の為とは成らないのでしょうか?
火葬もおかしな習慣の様に思います。人間が死んだら土葬にし、地球に戻すべきではないのでしょうか? それこそが、本当の輪廻転生じゃないのでしょうか?
人の命は大切ですが、それ以上に、地球の命は大切なものだと思います。
宗教の違いや、国家の違いだけで、争っている場合では、無いと思います。
最近の自然災害の多さは、地球からの警告だとしか、思えないです。
皆様は、どの様に思われますでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
地球は変化してゆく
どうなんでしょうね。
地球上の生物の中で、人間だけがそんな特別でしょうか?
たとえば、イナゴが大発生して周辺の植物を食べつくしてしまう場合は、イナゴの行動もひっくるめて自然現象だと思います。
人間の行動も、所詮は自然現象の一部、人類も地球も、いつかは滅ぶのです。
人間の行動も、地球の変化の一部、かつての恐竜とかと同じではないでしょうか。
仏教は、今・ここの心の平安を得るのに役立ちます。
また、地球が滅んだとしても生き物(神様も含む)の輪廻転生は続くと考えられます。
仏教は、はるか未来まで続く輪廻転生を見据えた教えでもあります。
私は、地球がなくなっても、死んだ者は宇宙のどこかに生まれかわると考えます。
(もちろん、地球の環境破壊を気にするのは、当面の地球生物の生活環境のため大事です。)
一人即千億人、千億人即一人
永平寺の門柱に「杓底一残水、汲流千億人」(しゃくていのいちざんすい、ながれをくむせんおくにん)とあります。柄杓の水をパシャッとやって、底に残ったチョロっとの水。その水も川が流れて海に至り、蒸気となって空に上がり、集まって雲となり、雨となって地上に降り…という大きな大きな流れの中の一時的な姿です。その大きな大きな流れとして見たとき、その一残水に関わるものは無数です。
それはあなた自身も同じです。人間も同じです。
その自覚を持って環境を大切にすることが大切です。そして同時に、自分もまた環境の一部だということは忘れてはなりません。
>利行は一法なり。普く自他を利するなり
(他者に丁寧であるということは、世界の真理の実践です。自分も他人も皆一緒に救われるのです)
これは永平寺を開かれた道元禅師の言葉です。他人が救われるために自分を殺めるのは偽善です。ただの殺生です。あなたの流れを汲む千億人を殺生することになります。動機はともかくやっていることは結局、環境破壊なのですよ。それこそ両極端のあっち側とこっち側でしかないのです。人としてふさわしく、人であることを全うせよ…それが仏の教えです。
火葬は言わば空葬です。焼いたからといって身体を組織していた分子原子が消失するわけではありません。煙となって大気に昇り、やがて地や海に降りそそぎ、微生物やプランクトンの餌となって自然のサイクルに戻ります。母なる地球の重力を舐めてはいけません。
ただ、化石燃料の代替エネルギーが見つかれば良いのになとは思います。だからと言って薪で一晩見ながら焼き、あっ、首がコロッと落ちた、やれやれ火に戻さないと…みたいなやり方に戻ってほしいとは思いませんので、化学者さんに頑張っていただきたいところです。
日本で土葬が行われなくなった事情は歴史を学んで下さい。都市部では骨壷と家族墓でさえ場所が足りていないのに、土葬のために山林を切り拓くようになれば本末転倒です。平安京では風葬(放置)し過ぎていましたが、あれはあれで環境汚染です。
結局、環境のことだけを考えるなら一点に負荷をかけ過ぎないよう多様化すべきという話になりますよ。
戦争の背景も人類皆がまっすぐ学ばねば絶対に無くなりません。宗教や国のせい、他人のせいにして責任をなすりつけることはそれ自体が紛争の種です。
「無明」を対治へ向けて
平安な心様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
人間は確かに愚かです。三毒と言われる煩悩である貪(むさぼり)、瞋(激しい怒り)、そして、痴の、痴がまさに「愚かさ」ということになります。
根本的な愚かさのことを「無明」(むみょう)として、真理を知らずにいる「根本的な無知」を示す言葉となります。
この「無明」を対治し、悟りを目指す教えが仏教となります。
「本当に、お釈迦様は、そんな愚かな人間を助けるために、仏教の教えを広めたのでしょうか?」・・
「梵天勧請」として、梵天という善神から、悟られた教えを説くように請われたということもございますが、無明にある愚かなるものたち(何も人間だけではありません。六道にある衆生の皆)が、いつまでも迷い苦しみ(輪廻)に喘いでしまっていることを憐れみられて、大いなる慈悲の御心も起こされ、教えをお説きになられたのではないだろうかと存じます。
そして、悟りへと至るための四つ(苦・集・滅・道)の聖なる真理(四聖諦)について、お釈迦様は、まず最初にお説きになられました。(初転法輪)
もし、この輪廻から脱するための教えを聞くチャンスを逃したままでは、いくら生死を繰り返しても、また無明によって迷い苦しみを繰り返すだけになってしまいかねません。
非常に得難い人身を受けたる今こそ、仏様の教えを学び修する絶好の機会に恵まれております。真の「平安なる心」である悟りへ向けて、今生、できれば無駄には致したくないものでございます。
また、「災害」というものは、私たちの八苦の一つの「怨憎会苦」にあたりますが、これもあくまでも私たちの都合による「災い」という捉え方となります。地球、自然、宇宙は、ただ因縁に従って移ろい変わりゆくものにしか過ぎませんし、別に人類を住まわせる環境のためにという意図での何か意思が働いているわけでもないかとは存じます。
それよりも、「自業自得」な面がある部分は、どう無明による悪い業(カルマ、行い)を対治していくべきであるのかというところが大切となります。
是非、まだでございましたら、悟りという真の「平安なる心」へ向けまして、まずは「四聖諦」から仏教の学びをしっかりと進めていって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
正き智慧を学び精進しましょう
拝読させて頂きました。あなたがおっしゃるとおり人間は愚かです。考える力を過信して本来の生きるあり方を都合のいいようにねじまげています。
やはりその根源は私達の愚かさですね。正しい智慧をもたない目先のことばかりにとらわれて自分で自分を追い込んでしまっている愚か者ですね。
仏様のお示しになる正き智慧の目を開いて私達は仏様のお導きのもとに精進するべきかと思います。
あなたもお気づきでしょうからぜひとも正き智慧を学んで頂きたいと存じます。
あなたがこれからご精進なさりみ仏のお導きを受けて真心から信心をもちご成仏なさって頂きますように心よりお祈り申し上げます。
質問者からのお礼
皆様、ご回答ありがとうございます。
色々なお話しを聞かせて頂き、感謝します。
願誉浄史さま
地球が無くなっても、宇宙のどこかに生まれかわる。
そのとおりだと思います。
宇宙って不思議なものだなと改めて感じました。
kousyo Kuuyo Azumaさま
おっしゃる通りで、私は仏教について、学び始めたとこなのです。今後、正しき智慧を学んで行きたいと思います。
大慈さま
自分も環境の一部であること、自分を殺めることも環境破壊であること、火葬しても自然のサイクルに戻ること、なるほどなと思いました。
仏教の教えとは、悩める人を救うものだと理解していましたが、地球、宇宙も含めたもっと大きな流れを見渡したものなのですね、改めて仏教の教えの懐の大きさを感じました。
ありがとうございました。
川口英俊さま
非常に得難い人身を受けたる今こそ。
自業自得な面がある部分は、どう無明による悪いを対治していくか。
が、重要であると理解しました。
「四聖諦」から仏教の学びをしっかりと進めていきたいと思います。
ありがとうございました。