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頭に浮かぶ言葉

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有り難し有り難し 18

初めまして。
少し前に気が付くと頭の中で呟いている言葉が気になってしまい、ご質問させていただきました。

仕事中、車の運転中、入浴中。ふっ、と気が付くと頭の中で
「ぎゃーてーぎゃーてー」と呟いていた時期がありました。
調べてみると般若心経の中の言葉の一つだと知りました。
暫くすると呟く事が無くなったのですが。

それから暫く経って
夢の中で「○○が七つの大罪…気を付けて」と言われて目が覚めた事がありました。
七つの大罪という言葉も初めて聞く言葉で○○が誰の事なのかも分からないままです。

それからまた暫く経って
また頭の中で言葉を呟いていて今度は
「ぶっしゃ、りとう」と呟いていました。
こちらも調べて初めて意味を知った言葉なのですが
「仏舎利塔」の事なのではないかと考えました。

今は、頭の中で言葉を呟いたりする事は無いのですが
ずっと気になっていて質問させていただきました。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

プライドの煩悩があるから、価値をつけたくなる

何かのきっかけで見聞きした言葉が、頭に繰り返し浮かぶことは、無意識に日常生活で起きます。
脳ミソが体操している、みたいなもんではないでしょうか。
ところが、人間は、「私はすばらしい」「私
は特別だ」と思いたい、プライドの煩悩がありますので、そのような脳ミソの体操にも「何か素晴らしいモノではないか?」とプライドをくすぐるネタを探したくなるのです。
たまたま、宗教的な言葉が浮かんだから「プライドネタさがし」センサーにひっかかって気になっただけです。
もしも、「おまた開いてワン・ツー・ワン・ツー」と浮かんだ場合は、気にしなかったはずです。
いずれにせよ、気にする必要はありません。特に悪いことでも縁起が悪いことでもありません。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

4:44

デジタル時計の数字が11:11だったり、3:33だったり、4:44だったり、自分の誕生日だったりすると、リンクさせるものです。
車のナンバープレートなどもそうです。
普段は、流してみています。
これと言って何にもリンクしない時間や番号であると、あまり他のことを想起しないものです。
新垣結衣さんのCMでバスで降りそこねて「あーもーどーしよう」「アーモンドしよう!」というのがありました。
何気なく言った言葉がたまたま仏教用語などとかぶることがあるものですね。
結びつけ、関連付けとでも言いましょうか。心で、なにか探し物のアンテナを貼っていると、それに関連するものを見つけやすくなります。
せっかくですからギャーテーギャーテーの真意を理解されることをお勧めします。

そのままに聞くという事です。
そのままに見るという事です。
意味を二次的に添えずに、そのままに居るという事です。
人間は、出来事に後から二次的に意味を添えて、そのものを脚色します。
ニワトリや「おっえおっおー」と鳴いた言葉も「コケコッコー」化されます。
犬が「うぉんうぉん」と吠えていても「ワンワン」と表記されます。
そのままに受け止めるという事は、変換も翻訳も脚色もない姿を味わうことです。
ギャーテーギャーテーの時には、ただギャーテーギャーテーと、あるだけです。
そこに二次的な添え事をしない、意味を付け加えない。
それが実は仏道だったりします。
五月はこいのぼりの季節です。
鯉のぼりが風に揺られるとか、泳ぐとか、パタパタとか、子供成長を祈って…、とか、何も無しに、なびいていみてください。
それが、ギャーテーギャーテーの真意です。
世間の訳は、二次的に意味を添えています。
本当は、「往けるものよ、往けるものよ」などという余分な訳は要らないのです。
これを悟ると、今後、どんな言葉が口に出されても、そのままでいられるようになるでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お早いお返事ありがとうございます。
例に出された言葉に思わず笑ってしまいました。
特に悪いことでも縁起が悪いことでもないとのお言葉に、ほっとしました。
私の煩悩はプライドが高い事と物事を悪い方向に考えてしまう事かもしれません…。
ご相談できてよかったです。

お返事ありがとうございます。
お礼が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

ふっ、と見た時計の時間がゾロ目だったりすると
「あ!」と思います。
特に何も無いのですが、何か良い気分になります。
『そのまま』というのは中々難しい事ですね。
見たり聞いたりした事を脳や心が自動的に変換をしていて
それがあまりにも早く、日常的すぎて
変換をしている事にも気付かない…という感じを受けました。
変換されて出た感情も個性だという思いもあります。
丹下 覚元様のお言葉は、私にとって興味深いものでした。
時間をかけてゆっくり考えてみたいです。
ありがとうございました。

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