苦しみは本当に幻なのでしょうか
ここで苦しみについての皆様のたくさんのお答えを拝読しました。
苦しみは妄想である、頭が作り出す幻であるというお答えに関して私はなるほどなと思いました。
だけど私にはこの苦しみが私が作り出した幻だとはどうしても信じられません。幻にしてはあまりにも強く、実体があり、私の力をはるかに超えていて抗いようがあません。
いくらお前は幻だと言っても、いつもそれは過去から私を追いかけてきて、私をあっさり捕まえてねじ伏せてしまうのです。なぜ私が作り出したはずの幻が、現実に生きる私よりも強い力で私を傷つけるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
追いかけてきたり、ねじ伏せられたりすることはない
苦しみは絶対に追いかけてきません。
あなたが思いだすとそこに記憶として悲しいとか辛いとか思うことがあるのでしょう。しかし、次の瞬間おいしいカレーを食べれば、カレーがおいしいと思います。その瞬間きれいさっぱり消えてなくなります。
マッサージに行けば、その時のイタ気持ちいい感覚しかありません。
たまたま思いだした瞬間に思えたというだけであって、苦しみが人を傷つけることはありません。事実に勝るものはないでしょう。
苦しいと思った時にそれが続くように感じている時には、間違えなく気持ちが「今」から離れ、思いの後を捕まえて追っているはずです。そういった様子に気がつかないと、事実より妄想を大切にしてしまうのでしょう。
つぐみさま
苦しみは幻、ということ例えてみますと。
一枚の白い画用紙があります。
そこに一本縦に線を引きます。
そうすると右と左ができます。
線を消すと右、左もなくなります。
何もない画用紙に、線を引くだけで右・左が
生まれます。これが幻ということです。
頭が作り出す幻、というのは線を引くことです。
線を引くのをやめるか、消さない限り幻は、
右、左は消えません。
心の中で、いろいろな価値の基準や願望を
設定すると(線を引くと)、良い悪い、上下、損得、有無
きれい汚い、幸不幸、満不満、様々なものが作り出されます。
それらの結果、喜びや、苦しみ様々なものが生まれます。
画用紙の中心に円を描きます。
内と外ができます。
内側が自分、外は他人、周りの世界です。
もともと何の境界線もないところに、円を描いて
「自分」を無意識のうちに作り出しています。
その自分に名前や評価、レッテル、色々貼り付けて
自己像をつくり、それを自分と見なし生活しています。
何もないところに円を描き、自分を認めてしまう
ところが、苦しみの生まれる大元です。
自己像も幻です。架空のものです。
それを自分と見なしてしまうと、苦しみは続きます。
本当の自分は、画用紙に円を描く前の、
画用紙全体であり、自由に何でも画用紙に描ける力、
そこに現れたものを知覚できる力です。
こころ、意識、働き、力です。命そのものです。
形のない、規定できない、大きな力がつぐみさんです。
今の最先端の科学技術をもってしても、蚊一匹、
蟻一匹、命あるものをゼロから作り出すことはできません。
命は人の力、人智をはるかに超えています。
その人智をはるかに超えているのがつぐみさんでも
あるわけです。大きな力を備えてない訳がないと
私は思います。
自己像を自分と見なしてしまうのは、とても勿体ないと
思います。
「私が作り出したはずの幻が、現実に生きる私よりも強い力」
とありました。変ないいかたかもしれませんが、
それだけの「強い力のもの」を作り出す力が自分自身に
あるということでもあると思います。
怒りや苦しみはあってほしくないもの、歓迎しないものと思いますが
ただただ痛めつけるだけものではなく、
自分にとってとても大切なことに気づかせてくれるもの、
そこに導いてくれるものでもあると思います。
前回のご質問と合わせて、思うこと書かせていただきました。
しっかりとお向き合いなさって
拝読させて頂きました。あなたのおっしゃる思いよくわかります。自分自身にいつも苦しみはついてまわりますよね。それもこの世の定めです。あなたがこの世にいる事と同様に苦しみも存在することはいなめません。
人が生まれ、病いになり、老いていく、そして死に至ることはまぎれもない事実です。愛するものとは離ればなれにならざるをえませんし、嫌いなものとは必ずや巡り会います、自分の思い通りにならず、求めるものは得られない、それが人生でありこの世の中であると納得して生き抜くことができるならばその苦しみからは解き放たれます。が、しかしそう悟りを得られないのが人間です。
どの様な賢者であってもそれはなかなか超えることができない現実です。
であるならばいかにその苦しみを軽減できるかではないでしょうか。全てをありのまま何でも受け入れることは難しくとも今の現状をじっくりと見据えて自分の受け入れられる範囲にて受け入れていく、そして自分の生き方にフィットさせていくことは少なからずできるのではないでしょうか。
何でもやってみて失敗があるのが人生です。簡単には何でもクリアはできません。何度も試行錯誤しながら苦難に取り組んでいけるからこそが人生ですし、苦しみを乗り越えていくことにもなって参ります。
あなたの人生はまだまだ道半ばです。どうかご自分の人生の中でその苦しみにしっかりとお向き合いなさって頂きながらこれから大切な充実した毎日を過ごしそしてご成長なさって頂きたいと切に願います。
あなたの未来が苦しみを乗り越えて豊かな幸せ多い未来でありますようにと心よりお祈りさせて頂きますね。
どうかこれから未来に向かってしっかりとがんばってくださいね。
幻のようなもの
つぐみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
全てが「幻」ではなくて、「苦しみ」も含めて、全てのモノ・コトは、「幻のようなもの」と仏教では表現されることがあります。
ポイントは、「ようなもの」、つまり「如く」であり、幻とイコールではないというところであります。もちろん、本当の幻もあります。蜃気楼とか逃げ水、夢の中での出来事など。
そして、幻のようなものではあっても、実際に効果的な作用、働きはあり、例えば、氷にさわれば冷たいし、火にさわれば、熱くやけどします。氷や火は幻だといったところで、我慢できるわけはなく、冷たいものは冷たいですし、熱いものは熱いというものとなります。
当然に苦しみというものも、その苦しみをもたらす効力を実際に体験している以上は、苦しんでいる事実には何ら変わりありません。
しかし、それらの苦しみは、どこからやってきたのか、と言えば、何も原因や条件も無いところから突然に現れるわけではなく、必ずその苦しみへと至らしめる因縁(原因と条件)があってのことであり、では、その苦しみをもたらす因縁を苦しみを滅する因縁に調えてあげれば、苦しみは当然に滅していくものにもなるということであります。
冷たくて苦しみになるならば、温かくする因縁を、熱くて苦しみになるならば、冷ます因縁をということになります。
苦しみを滅するのも、やはり因縁あってのこと。その因縁を調えるための教えが仏教となります。
是非、より仏教の修習を進めていって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます。
きっと私は自ら過去に力を与えていたのでしょう。過去に事実以上の意味を上乗せして自らを苦しめていました。何も無い所に「こうするべきだった」と線を引いていました。理想のためにもっと出来ることがあったはずだと思っていました。これがまさに妄想だったんですね。
突拍子もない言い方ですが私はあの時の自分を追いかけたがっていたのかもしれません。
こういう形で昔のことを思うのはやめようと思います。あんな事も無駄ではなかったと思えるようなった時に、受け入れていけると思います。
本当にありがとうございました。