死について
このタイトルの質問は多くたくさんは拝見するのですが、少し私は考えが違うかもしれませんので、投稿させていただきます。長文御容赦ください。
私は死について考え出したのは小学6年生の時でした。
そのときは、死んでしまうともうこの世には帰ってこれないし、今楽しいと思うことはもう二度とできない。といったものでした。
そして、考え方は年々変化しました。
今は以下のことを考え、夜になると吐き気をもよおすこともあります。
・死んだらどんな姿になるのか
・姿が変わっても親や妻、夫に会えるのか、また後から来る人にも会えるのか
・生まれ変わるというが、今実際前世何かだったという記憶も多分ありません…
・あの世でも老化ということがあるのか?あればどのくらい前の人まで会えるのか?なければ老けない姿でどうやって会いたい人を探すのか?
・なんといっても向こうでも働くのか?食べるのか?ずっと活動するのか?
といったことがこれでも一部ですが、考えてしまいます…
誰も死に逢ったことはないし、わからないものです。
ですが、かといってこういうふうな捉え方をするなと言われてもできそうにはありません…
ありがたきお言葉をお待ちしております……
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生死一如
こんにちは。
浄土真宗の藤波と申します。
私も極めて早い時期、小学校の低学年から、mobileさんと同じことを考え、あるいは空想する子供でした。
結果、小学生向けのものから専門書まで、いろいろ本を読んで来ました。大学でインド学を専攻することとなったのも、そうした延長線上とも言えます。
死後の世界を考えることは、今、自身が生きていることを実感することに他なりません。
元より、私が属する浄土真宗は、この命が尽きた時、阿弥陀如来の導きによって、必ず極楽浄土へ往生し、成仏すると説く教えです。でも、浄土往生というテーマは、この世で語る限りは観念論の域を出ませんね。でも我々は、俗にいう死後の世界を、苦悩(現世)の先に開かれた覚りの世界と見ています。
去る5月、母親が亡くなりました。母親は長らく、ターミナルケア病棟に入っておりました。いずれ今生での別れが、必ず訪れるのが辛くて仕方なかった。その思いは、死を受け入れることへの恐れだったと思います。いよいよ覚悟して下さいと、病棟の看護部長から伝えられた時、すごく悲しくて涙が止まらないものでした。
それから数日して、早朝に母親は逝きました。母が息を引き取るまでの間、私はずっと病床の傍らで読経をしておりました。さまざまな、母親との記憶も去来しましたが、母の臨終を見て、私は浄土へ往生したんだと、心底から実感したものです。そこには、死後の世界という何が訳の解らない混沌とした暗闇の世界という思いではなく、阿弥陀如来に抱かれて行く世界なのだと感じ入ったものです。
私にとって死後の世界とは、そういうものだと実感しております。
何やら、私自身の体験談に終始してしまい、申し訳ありません。でも、偽らざる見解ですよ。
死後は誰も証明した人はいません。
mobileさん、こんにちは。
死後のことで悩むのですね。
死後のことは誰も科学的に証明した人はいません。だからあなたと同じ悩みで苦しんだであろう歴史の大先輩は、宗教や文化の中で死の観念をイメージし理解し、苦しみの救いとしてきました。だから、死のとらえ方は国や宗教、地域で違います。そしてどれも科学的には証明できません。
是非、mobilさんは若いのですから、大先輩と同じように、まずは図書館に行って、片っ端から、死について語った本を読んでみてはどうでしょうか。そしてあなたの感性にあった死生観を見つけてください。
私も同じように十代の時に死について恐れ調べて仏教を知り、そしていつの間にかお坊さんになってしまいました。今日もお葬式でしたが、亡くなった方と触れ合う度に、死とは何か、生きるとは何かを、考えて、自分の死生観を学んでいます。
必ずあなたにあった死についての説明された本があると思います。合掌
質問者からのお礼
同じ浄土真宗信仰として、人生を全うします。