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事故を起こしました。
私は車に子どもを乗せてました。
普段通りの運転でしたが、私が悪かったのです。
奇跡的に全員が骨折等もありませんでした。

用を済ませ家の駐車場にとめて様子を見ると子どもが眠りそうだったので、家に入るのをやめて、車でそのまま寝かしつけにいきました。いつもの近所を回り、なぜか初めて通る道に曲がってしまい、そこで事故を起こしました。

いろいろあり、ずっと夜が怖くて、夫が不在の時などは夜はなかなか眠れません。
いつも被害にあったらと心配してきましたが、こんなにも、そんなつもりがなくても加害者になり得るのかと怖くて仕方ありません。

相手の車が自分だったら子どもが死んでいたかもしれない、相手にもしなにかあっていたら、相手が後ろにうちのように子どもなど乗せていたら、そんなことばかり考えています。
とにかく怖くて仕方ありません。
中途半端な都会田舎なので車がないのは難しいです。
どうするのがいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたたちは無事だった。今はもうその事故はどこにもない

無事で何よりでした。
もしかして、あの時こうだったらと考えただけで事実は無事だったのです。
そんな考えの世界を言い出したら、世の中の事件事故をすべて自分に当てはめ、外を歩くことさえできなくなります。

今回は無事であった。次から気をつければ良い。それだけの話。悪いことを想像してもただの想像にすぎません。もし、あの時、の思考は全く無意味です。
苦しむための思考はやめておきましょう。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

今の事実に目を向ける

私も昔、事故を起こした時、しばらく事故状態が続いていました。
もう、その事故はとっくに終わっているのに、砂漠を歩く亀の尻尾の如くにずっと後を曳いていました。
ある時、師(父)が「交通事故はぶつかった瞬間だけで後は片付けだ」と言って目が覚めました。
なるほど、私は想念の方を相手にしていたのだ。
もう、その事故はとっくに終わっていた。
終わらせていなかったのです。
どうすれば終わらせることが出来るか。
想念では思い返すことが出来るけど、それは思い返しているだけ。REPLAY、追憶、追認、想念であって、現実の事実ではないことを知るのです。
あなたの肉眼は、たった今、この文字を見ている。
これは、想念ではなく実際の事実です。
この文字を見ている時に〇△☐、他のものが見えたらおかしなことです。
それは他のものが見えたのではなく、アタマの中で思い描かれた想念です。
そこの区分けがあなたの中でキッチリついていないのです。
今の事実は今の肉眼で見ているもので、その時限りでもう二度と見ることが出来ないものであると、知ってください。
今、目の前に車が一台通り過ぎて行ったとします。
窓の外やテレビの映像などをみてください。
それは、その時限りです。巻き戻しても、それを見ている時間は異なります。
その透り過ぎた車を思い返すのは、想念であって実物ではありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

皆さまお答えありがとうございました。取り返しのつかないことがある、ということを強く強く感じました。
悪い方へと考える思考を止め、しっかりと今後につながる意味があるように考えたいと思います。本当に車は凶器だということを常に肝に銘じ、運転を今一度見直します。

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