なぜ「一喜一憂」してはいけないのでしょうか
こんにちは。
偉大な人は、よく「一喜一憂しない」といいます。でも、私はなぜ一喜一憂してはいけないのかがよくわからず、人から「一喜一憂するな」と言われても実感がわきません。お坊さま方は、「一喜一憂」についてどう思われますか。
私の状況をもう少し具体的に申しますと、初めはなぜ「一喜一憂」がいけないのか、さっぱりわかりませんでした。人間には喜びも憂いもあるものだし、良い感情も悪い感情も正直に受け入れたり味わったりして、心から笑い、心から涙してこそ「生きている」という実感が得られるものじゃないか、と考えていたからです。
でも今は、一喜一憂してはいけない理由が半分はわかりました。やはり「憂」はない方がいいのだと思ったからです。マイナスをマイナスのまま受け止め、嘆いたり悩んだりしていても何も進みません。さらに、今までそういう姿勢を肯定してきたことが、自分自身のメンタルの弱さにも直結していたのだと気がついたのです。
「悩んでもいいんだ、人間なんだから」と思わず、「悩んで立ち止まってちゃいけない、強くならなきゃ」と思えるようになったことは、私にとってすごく大切な成長の機会でした。メンタルを鍛えること、これは今の日本全体にとってもすごく大事な課題なのではないかとも思います。
だけど残りの半分、「一喜」はなぜいけないのかは、まだわかりません。喜ぶことの何がいけないのでしょうか。
もちろん、私の喜びが敗者の存在のもとに成り立っていること(受験など)であれば、相手に配慮して場をわきまえたり、言葉を選んだりすることは必要だと思います。でも、野球選手やサッカー選手だって、優勝した時やゴールが決まった時は全身で喜びを表現しますし、それを見ている視聴者もその姿に祝福の気持ちを抱きます。剣道の試合などでは、ガッツポーズをしてはいけない…という話も聞きますが。
それに、喜びを表現することはコミュニケーションとしてもとても有益だと思います。誰かとの共同作業が成功した時は、「あなたのおかげよ!ありがとう!」という気持ちを、全身の喜びで表現する・される方がやはり嬉しいものです。それに、誰かの喜びに共感し、分かち合えることにも人としての大きな幸せがある…と思うのです。
そう思うと、やっぱりなぜ「一喜一憂」がいけないのか、私にはわかりません…。
どうか、ご指導をいただけたら嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
感情との上手なおつきあいをすれば問題なし。
一喜一憂・喜怒哀楽そのものがいけないのではありません。
事あるごとにふらつく心では、心が徒労するから一喜一憂するその心をおさめる❝べき❞であるということで、一喜一憂するべきではない、という程度であって喜怒哀楽そのものがいけないというわけではありません。
喜びはいけないのか。
あってもいいじゃないでしょか。
ですが、品の無い喜びというものおある。ザマーミロのような相手を損ねる喜びもある。
純粋な喜びであれば害はないですが、事故があった時、自分達だけが助かって相手が無くなってしまったとすれば大いに喜んだとしたら相手を傷つけることもあります。
怒りはいけないのか?私憤は良くないです。自分の身心を滅ぼしますし、他者にも害が起こるからです。
でも、戦争が良しとされたり、税金がどんどん上がって人々を苦しめるような圧政がまかり通ったら、公の憤り、公憤として怒るべきです。死にたいと思ったらならば、死んでたまるか!と怒るべきです。いじめを受けたら、こんなことでつぶされてたまるかと大いに憤るべきです。
悲しみはあってもいいじゃないですか。
愛する人を亡くてし泣かないほうが立派なんて人間じゃない。
ですが、引きずり過ぎれば今日を見失う。
楽しみもあってもいい。ですが違法ドラッグや飲酒運転でヒャッホーな楽しみで人を車ではねたりすれば楽しみも罪。
苦しもの見間違えれば毒。
毒も使い方で薬。
物事を片面的に観ない方がいいでしょう。
文字も普通に書いてあっても、悪くとらえる人は怒られているみたいに思うもの。
ものに本来、害無し、毒なし、人畜無害。
それを害にするか薬にするかが人の器量の問われる所。
どんなものも薬にされると良いでしょう。
八風吹けども動ぜず
はじめまして^^
『八風吹けども動ぜず天辺の月』という禅の言葉があります。
八風とは人生の中で起きるであろうよいこと、悪いことをざっくりと『利、衰、毀、誉、称、譏 、苦、楽』の8つに分類したものです。
利とは、成功すること、衰とは失敗すること、毀とは陰で誹ること、誉は陰で讃めること、称は面と向かって讃めること、譏は面と向かって誹ること。
苦と楽は、説明不要ですね。
生きている間には、褒められたり、称賛されたり、けなされたり、批判されたり、色々あります。
けれど、天に浮かぶ月のように、動じることなく生きなさい。という言葉です。
まあ、一喜一憂してもよいと思いますよ、にんげんだもの(笑)
ただ、仏教ではそのどちらにもとらわれるなと説きます。
これは仏教の教えの中でも大事な「中道」という考え方に通じます。
喜んでもよい、憂いてもよい、ただ、いつまでもそこに留まらないこと。
「喜」も「憂」も、そのどちらにもこだわらないこと、それが大事。
執着こそが「苦」の種です。
一喜一憂してもいいじゃないですか。
人間じゃなくたって、きっと仏さまだって喜んだり悲しんだりはあると思います。
ただ、仏さまは悲しくても悩みません。喜んでも流されません。
慈悲という言葉があります。
仏さまは人間の無智から来る苦しみをみて、凄く悲しく思うのです。
涙なども流しちゃうかもしれません。
怒ると怒髪天に届くってくらい怒ってますし…ウチの本尊様のお不動様とか…。
だから、感情を押し殺したり、感情が無いように努力する必要は全く無いように思います。
ただし、その感情に飲み込まれて右往左往してはいけないのです。
自分が今どのような感情を感じているのか、
そのことをしっかりと把握して受けとめる必要があります。
そしてその感情に流されずに、慈愛のある行動をとっていければ良いのだと思います。
感情の無い人生なんて、カラメルシロップのかかっていないプリンより味気ないのではないかと思いますよ。
質問者からのお礼
お坊さま方、丁寧なご回答をいただき、誠にありがとうございました。
私はこの問題に向き合い始めてからもうだいぶ長いのですが、自分の価値観の中だけで考えて、答えが見出せずにぐるぐるさまようばかりで…でも今回、こちらで相談させていただいて、人の心を見つめるお坊さま方ならではのご知見や、禅や仏さまのお言葉も教えていただき、一気に視界が広がりました!
私は相変わらずメンタルが弱いので、迷ったり悩んだりしてばかりですが、またご助言をいただけたら嬉しいです。本当にありがとうございました。