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妻と幸せに暮らしていきたいです。

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私は今の妻と出会い、初めて結婚したいと思いました。

妻は一生懸命働く人で明るく、笑顔が魅力的な人でした。

そんな妻に恋をし、付き合いました。

妻は子供の頃から父親の暴力に怯えながら生きてきました。

その話を聞いて、より一層この人を幸せにしたい、この人と笑顔の絶えない家庭を築きたいと思いました。

妻は父親の暴力を我慢し続けたせいで、解離性障害という病気になってしまいました。

それでも妻と結婚したいという気持ちは変わらずプロポーズをし、結婚しました。

そして現在は私と妻はパチンコにはまり、手をだしてはいけないお金を使い、借金をしてしまいました。

私の父親に生活費としてお金を借り、そのお金でパチンコで勝てればまた普通に生活ができるという考えで使ってしまう...事の繰り返しです。

妻とパチンコを辞める話をしても寂しいのか喧嘩になり、妻がパニックになり話が進まず終わってしまいます。
パチンコを辞めたいのに辞めれない私にも原因があるので妻を責める事もできません。

妻を幸せにしたいと思っていたのに今の状況は妻が子供の頃とあまり変わりません。

そして私はやりたい仕事が見つからず、職を転々としています。

そのせいもあって生活が安定していません。

パチンコを辞めたいです。

妻にも辞めてほしいです。

妻と幸せに暮らしていきたいです。

安定した仕事につきたいです。

そして父親に恩返しをしたいです。

つたない文章ですが、どうか回答の方をよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

またのご来店をおまちしています。(また金持って負けに来いよ)

夫婦は両輪。
自転車も片輪がパンクしたら走行できないものです。
あなたが奧様を愛される気持ちは実に素晴らしいですが、それはウソですね。文章ではリッパな事を書いていますが、残念ながらそれはウソです。
「お前の事を愛しているけど、この毒をお前にのませ続けていくよ」と言っているようなもの。
ギャンブルを家庭に取り込んでいるからです。
このままでは共倒れ間違いなし。
私の親戚とある友人はギャンブルで身を滅ぼしました。
トータルで誰が勝っているでしょうか。店と社員とスタッフ。
今までつぎ込んだ額が100万で30万勝ったとしたら「勝った!」じゃない。「負けている」のです。自分にもお店にも人生にも誘惑にも。気づきましょう。
ですから、世間を敵に回してでもはっきりと明言します。
ギャンブルは家庭を滅ぼすものでしかありません。また、その可能性が大変高いものです。
私は最近、競馬のCMがさわやかすぎて気持ちが悪いと思っています。
鶴瓶や有村架純を起用して競馬に対するイメージを良いものであるように沢山のギャンブル依存症の人たちから巻き上げたお金を彼らに払って大々的にCMをしています。
「悪魔も仏も同じ格好をしてやってくる」ものです。
どうやって本物か悪魔かを見破るか。
「楽しめばいいhじゃないか」という事を言われる方がいますが、そういう事を言う人の目は病んでいます。何かの憂さ晴らしとしてギャンブルで発散しようとする。
その代償は生活そのものをおびやかすものになっている。事実あなた達がそうです。
今日からやめる!
やめられなければお互いがお互いにとっての悪い影響を与え合っている人間なのですから、本当に愛しているなら別れることです。
お父さんには真実をお話しする。本当に奧さんを愛しているなら。
私にはあなたが奧さんを愛しているという言葉が競馬のCMくらい嘘くさいです。
愛しているという言葉を使っているだけで実生活が伴わない。
世間のサービス業とは、純粋かつフェアに人を幸せにするものです。
では、世間のサービス業とパチンコ屋のスタッフとの違いはなにか。
パチンコのスタッフたちは本当にあなた達の幸せに貢献しているか。
人を幸せにするサービス業をしているか。本当に。
よく考えてみてください。
パチンコ屋はあなた達夫婦のようなカモがいるからお店がどんどん栄えるのです。
自分で気づくしかありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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