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仮病を使ってズル休み

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今日、用事を仮病を使ってズル休みしてしまいました。
やりたくないことがあったからなのですが、今日やらずとも来週やらなければならないので、結局先延ばしにしただけでした。
仮病を使ったのはこれが初めてではなく3.4ヶ月に1回くらいはズル休みしてしまいます。
しかし休んだら休んだらで罪悪感で一杯になり結局気分が沈みます。
この程度のことでズル休みしてしまう自分の心の弱さと情けなさ、そして社会に出たら大丈夫だろうか(まだ学生です)という不安でいっぱいです。

何かお言葉を頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

堂々と休みを堪能する

私は子供の幼稚園を時々ずる休みさせることがあります。
私用欠席、といいます。
幼稚園も、小学校も、中高大学校も、必ずしも絶対に休んではいけないなんてことはありゃしません。
体調がすぐれなければ休んでいいのです。
そればっかりになってはいけませんが、自分の人生は自分の自己責任。
自分の健康、自分の体は自分で管理する。
せっかく休めたのにそんな事を考えていたんじゃ、心身ともに休まりません。
次にズル休みをする時は、ズルくなく休みましょう。
禅仏教では大休、一休、休止といわれるように、心の動作の休止を勧めます。
あれこれ悪いことを想う事を休ませるとよいでしょう。
不安も負の想念も悪いことを考えるのも休ませることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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