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前世の私

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私は人から好かれません。必要とされません。友達がいません。きっと前世はひどい人間だったのでしょう。どうしたら良いですか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

前世とは1秒前。過去の事。来世とは1秒後。

世間では前世というと、生まれる前のことであると言われていますが、それは俗説です。
本当の前世とは、1秒前、それ以降の事はみーんな前世です。 
来世とはその逆。1秒後、それ以降はみーんな来世です。生まれ変わった後とかじゃありません。
今の現世(ライトヒア ライトなう)の自分を作ったのが、あなたがこの世に誕生してからの過去世である前世(0歳から今日まで)です。
むやみに根拠のない思想に魅入られると明晰な思考を損ないますから、今日からエセ前世思想は捨てて、ちゃん自分の現在、そしてその現在を作った過去を振り返って冷静な思考を取り戻してください。
正しい思考は明晰なものの見方から生まれます。
根拠の無い俗説仏教の思想はファンタジーであると私は思っています。
さて、好かれない、必要とされない、友達がいない。私も似たようなものです。
友達はいなくてもいいのです。ヒクツにならなければいいのです。
何故なら友達は24時間ずっといるわけでありませんし、7日も居候されたら親友でもケンカになってしまうからです。
ベタベタな友達がいることで交際費がかかって内心こころ病んでいる人もいます。
そういう意味ではあなたは恵まれていると思うべきです。
仏教においては、心のやすらぎを求める仲間こそがもっとも勝れる友であると説いています。
ナムキエソー、ナムキエソー(南無帰依僧)と唱えてみましょう。
本当の勝れる友があなたの友達になってくれます。
あなたがこの世の中の善玉菌活性化の為になにかしよう、と志を起こして頂ければ私もここのhasunohaのお坊さんも、世の中のお坊さんみんなが瞬時の内にお友達、法友になります。
お寺にも遊びに来てください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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