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純粋な心で親切にできない

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有り難し有り難し 47

20代女性。

私は困っている人がいたらすぐにお手伝いをするタイプの人間です。
道を聞かれたりすると時間が許す限り目的地までご一緒しますし、明らかに困っているような人を見かけたら「何かお手伝いできることはありますか?」と自分から話しかけたりもします。(もちろん、必要ないと言われればそれ以上のことはしません。)

今まで、「こんな親切なお嬢さんがいるなんて仏様に感謝したい」とか、「あなたみたいな心の優しい人はぜひうちの会社で働いてほしい」とか、たくさんの褒め言葉をいただきました。

しかし、最近ふと思ったのです。
私は心が優しいのではなくて、「親切にしている私」に陶酔しているだけではないか?
純粋に困っている人を助けたいのではなくて、「困っている人を助けてあげる私ってステキ」と思いたいだけなのではないか?
と思ったのです。
助けてあげるという言い方からも分かるように、これって、ものすごく上から目線で傲慢な考え方ですよね。

周りの人は「面倒くさいし時間がもったいないから絶対に道案内なんてしない」「困っている人がいたら見ないフリをして通り過ぎる」という人が多いのです。
もちろん困っている人をほうっておくのは良くないことだとは思いますが、この方たちのほうが心は純粋なのではないかと思えます。
だって、面倒→助けない→イヤな人間と思われようが構わない、と、態度が一貫しているからです。

その点私は、親切に見えるだけ余計にたちが悪いと思います。
邪な動機で人助けをして、お礼を言われて調子に乗っています。
周りを欺いていると思うのです。

くだらない自己顕示欲から手助けをするのはもうイヤです。
でも、困っている人を見捨ててはおけません。
道だって聞かれたら答えてあげたいです。
でも、どこかで「ありがとう」の言葉を期待している醜い自分がいます。

どうしたらこの傲慢な態度を改めて純粋に「人を助けたい」と思えますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真似から始まる

こんにちは。私も大乗師とおなじ、浄土宗です。ですが敢えて、真言宗っぽい話をします。浄土宗はお念仏ですが、真言宗は真言を唱えます。聞いても「何これ?」という秘密の言葉です。普通の日本人が聞いても意味不明。でも唱えます。それは、「仏様の真似をしている」のです。徹底的に真似することで、仏様に近づこうという宗旨なのです。
そう、私たちの行動は、ほとんど真似から始まっています。学ぶの語源は真似ぶ。気持ちから始まっていないのです!
でも、それを続けることで心が伴ってくる。心とか自発性というのは、行動によって変化する傾向のことです。
私たちが何度も南無阿弥陀仏を唱えるのも、そんなメカニズムに乗っていると私は考えています。続けることで、心が変わる。あなたも、今までお礼を言ってくれた人たちがいるから続けられるのでしょう?何と有り難いこと。そうして燃料補給して貰いながら、私たちは行為を積み上げて行くのです。
迷いながら始めたお念仏も、それによって心が付いてくる。めげたり諦めたりしなければ、つまりやめなければ必ずそうなります。
迷いながら、続ければ良いのです。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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偽善上等

まな様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生も昔は、自己陶酔型の傲慢な、なんちゃってミスターボランティアでした。

でも、無駄にならず、色々と学ぶことは大きかったように存じます。このhasunohaにも活かせていることもたくさんあります。

大乗様もおっしゃられていますが、慢心を諫めるためにも、人の為と書いて「偽」とあるように、実は「人の為」、「他の為」にすることなど、所詮は「偽善だ」とぐらいに思っておくのが必要であるかと今は思っています。

そして、例え偽善で行った善い行いでも、それで実際に助かった方、救われた方、癒された方がいるのであれば、動機はどうであれ、善い行いによる結果は結果として、良かったと思うべきであるとは存じます。

「何もやらないよりかは、やる偽善」です。

偽善でも、何もやらないよりかははるかに良いと思います。

まあ、「情けは人の為ならず」と言うように、「偽善」でも、その善い結果は、回り回ってきっといずれ自分の為にもなるぐらいで考えておくのも良いでしょう。

「困っている人を見捨ててはおけません」・・ありがとうございます。この慈悲の御心はこれからもどうか大切になさられて下さいませ。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「行(おこない)」を重視しましょ。

まなさん初めまして、
私にもその気持ちよくわかります。

そういう自分に気づいちゃったんですよね。

でも気づいただけ良いと思いますし、
「汚い」自分に素直に目を向けることは大切なことだと思います。

私の宗派は浄土宗という宗派で
なにをさておきまず「愚者の自覚」
「おろかものの自覚」が大事だと説きます。

私たちはみなおろかものなんだ。

そこから出発しましょう。

神や仏じゃあるまいし。

いや、その自覚に立たねば神や仏に手を合わせられないのです。

話が横道それかけましたが、
私たちの心は、私たちが思っているより不安定で、様々なことを思い、考えてとどまらず。

まるで暴れまわる馬の如しです。

そんな暴れ馬を乗りこなしてから良い行いをしようとすれば一生良いことなんてできないかもしれません。

浄土宗の法然というお方は
心はともかく、とりあえずお念仏しなさい。
お念仏(なむあみだぶつ)を繰り返し繰り返しとなえていく中に自然と心が落ち着いたり、信じられるようになっていくから。

とおっしゃっています。

偽善だから、私の邪な心では、
などと思わないでください。

どのような心であっても
まなさんの行いは素晴らしいのです。
ぜひ、その素晴らしい行いを続けていってください。

その行いを続ける中におのずと、
他人のためにしていたりする自分に、気づくでしょう。

心は思い通りになりません。
その素晴らしいおこない(行)
に導かれて心が清くなるのです。

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おきもち

生きるための仏教 生身の私達のための仏教 私たちが人生を歩む上...
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質問者からのお礼

3人のお坊様、ご回答ありがとうございました。
心がどうあれ、まずは行動というお話、とても身にしみました。
まだまだ目立ちたがり屋で傲慢な心を持った私ですが、私にできることは今後も進んでやっていこうと思いました。
偽善者=悪、と思わずに、「偽善でも誰かが喜べばそれでいいか」と気楽に構えることにします。
本当にありがとうございました。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

夫の過去の浮気が忘れられない

浮気、不倫など自分とは無縁だと思っていたら、夫が不倫していました。 夜中に自分の部屋で女と電話している所を同居の娘に聞かれてバレました。 娘も私に言い出さなくて、2ヶ月は胸に秘めていたそうです。 女と遊び始めてからは、夫は 仕事にも行かず、女のシフトに合わせての外出、外泊、3日空けずに女と昼間からホテル。私は離婚するつもりで、探偵を雇い 証拠を揃えて、弁護士も雇い、女に慰謝料請求しました。怒り狂った夫は、私と娘に恫喝まがいの暴言を吐きましたが、結局は、慰謝料請求を取り下げて欲しいと言う事。もちろん、却下するものの、女は弁護士から送られた内容証明を無視。 弁護士からもあんな酷い態度の女性は初めてで、無視を続けてる以上、どうしようもない。訴えたところで、離婚していないのなら、判決で決まる慰謝料なんて少額。 訴えれば、私が損をすると畳み込まれました。 夫とは、よくよく話し合い、許してはいないけど、謝罪は受け入れる事にし、仕事にも復帰した夫、憑き物が取れたように、顔つきも元に戻り、平穏な毎日を送っていますが、私はあの女が許せないままになっています。夫が1番悪いことはわかっているつもりですが、無視をしつづけてる女が許せない気持ちが続いてしまってます。 自宅のパソコン、夫のLINEが同機していたので、2人のLINEやりとりはずっと見ていました。見てはいけなかったのでしょうが、探偵に情報を送るために確認していました。そのLINEには女が、離婚をそそのかしていたり、泊まりをねだっていたり、私の悪口を書いていたり、別れると言いながら、夫を呼び出しホテルで仲直りを繰り返している事がわかりました。 夫はもう一年前の事、もう終わった事と自分の中では終わらせてしまってます。 夫とは穏やかに暮らしているものの、私には落とし所が見つけられないままになっています。こんな私は見苦しいですよね? 再構築を選択したとは言え、あの頃の夫の顔つきや、暴言などがフラッシュバックしてしまいます。 こんな私にお言葉を頂ければありがたいです。残りの人生を穏やかに暮らしたいのです…

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普通の家庭への羨望、前向きにがんばれない

あまり一般的とは言えない家庭で育ちました。 親は共働きですが父親が働いたお金をすべてギャンブルに注ぎ込むため、生活費や学費がなくなり子どもの私や姉が高校に入学すると同時にバイトを始め母と一緒に生活費を工面する生活でした。高校卒業時に全部自分で責任を背負うことを決め家を出て、大学に進学しました。そして海外の大学院に進学し今に至ります。 現在私は30歳になり、海外で自分がずっとやりたかった仕事ができています。 それは子どもの頃からの地獄のようなアルバイトの生活とこれからの奨学金の返済義務を犠牲にやっとこの場所に立てているのです。なのにただ何もかも用意された環境で育ち、困ったことがあればすぐに頼れる実家や家族がいて、お金の心配をする必要なく日々を前向きに過ごせている周りの友だちが羨ましくて仕方ありません。 その上「逆境こそがんばらなきゃ!貧困を努力で乗り越えた人たちはたくさんいるよ!」「もっと賢い方法でお金を稼ぎなよ」と子どもの頃から何不自由なく育った人たちに言われても、素直に受け取れません。 周りからがんばれと言われても、そもそも子どもの頃から全部自分で稼いできた人が存在すること、親に頼れない家庭が存在することを知らない人ばかりで実際私の立場は誰にもわかってもらえないことと、周りとのスタート地点の大きな差をただただ思い知らされて心が折れそうです。 「確かにあの時もっとかんばれたんじゃないか?あの時少し怠けていたんじゃないか?」など自分の技量不足や努力不足も疑い始めました。でもこれでも立ち止まらず、立ち止まれずに心と体をぐちゃぐちゃに壊しながらも今まで一生懸命やってきました。 これからももっともっと前向きにがんばってお金を稼がなければなりません。それなのに私は今も周りの生まれた環境を羨み、比較して、なぜ私は今までもこれからもこんなに苦しまなければならないのかと絶望してしまいこれ以上がんばれないままでいます。 周りとの生まれの違いを気にせずに、どうやったら前向きにがんばれるでしょうか?

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あるSNSで複数人、グループのような形で仲良く交流をしてた人々がいました。(以下、ネッ友たちと記載させて頂きます。) そのネッ友たちとは約4年程交流していたのですが、ある日、ちょっとした事で喧嘩をしてしまい、いわゆる喧嘩別れをしました。 喧嘩の内容は、意識のすれ違いというか、 正直なところ、何故そこまで執着して責められないといけないのだろう…といった内容です。どちらに非があるのか、聞かれれば微妙な内容です。 喧嘩をした後は速攻アカウントを削除しネッ友たちから離れました。 それから2年後のある日、たまたまネッ友たちの内の1人のアカウントを発見してしまい、興味本位で覗いてしまいました。 悲しい事に、まだ私に関する悪口が沢山書かれていました。 過去の私の投稿や発言を転載し、揶揄する内容のものもありました。 会話のやりとりもあったため、察するに仲間内で盛り上がり、当時のメンバー全員で書いているのだと思います。 とても怖く、ショックであったため、もうそのアカウントは見ておりません。 お恥ずかしい話なのですが、当時、そのネッ友たちに自身の本名などの個人情報を伝えてしまったため、いつか個人情報をインターネットにバラまかれたりしないか?と心配で仕方ありません。 住所なども特定されてしまう、または既に特定されているのではないか?と余計な妄想までしてしまい悩んでいます。 自分の失態が招いた出来事であるのは勿論承知なのですが、デジタルタトゥーを残されることが特に心配なのです。 正直なところ、2年も誹謗中傷が続いているものですから、何をされていてもおかしくないと考えております。 現在進行形で悪口が書かれる事と、個人情報がインターネットにバラ撒かれないか、という不安で大変辛いです。 毎日、普通に生活していても、ふとした瞬間に書き込まれた悪口を思い出しては辛い気持ちになり、「今も悪口を言われているのだろう。」といった悪い思考に取り憑かれています。 どうしても病的に思い出してしまいます。 私は一生、この不安や憂鬱な気持ちと付き合っていく他ないのでしょうか。 どうすればSNSでの誹謗中傷を気にせずに居られるでしょうか? 何せ粘着されている期間が期間であるため、精神的に大変参っております。 どうすれば気にならなくなるか、または立ち直り方など、心の持ちようをお教えください。

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愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

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楽に生きたい

私は物事をマイナスに考える癖があるようです。 いつも怒られるのではないか、誰かから攻撃されるのではないか、嫌われているのではないかとビクビクしながら生きている事に気づきました。 「ちゃんとしなくちゃ」とか「人に迷惑かけないように」とかいつも気が張っていて何処にいても誰といても休まりません。 常に自分で自分を追い詰めているようです。 かと言って他人にそういう自分の状態を出しているわけではなく、周りの人は私がそんな事考えてるなんて思ってもいないと思います。 そのギャップにも苦しいです。 私は繊細で、大体の人が気にもしないような事を気にしているようです。 人の表情を読み取ってしまったりします。(今この人言ってる事と思ってる事違うな。など) 私のような人間がいる一方で、適当に生きている人(例えば人の話を聞かない人とか、遅刻する人、挨拶しない人、無愛想な人など色々な方がいますが)は凄く自由に見えて、ルールを守らなくても難なく生きてる人もいるんだと疑問に思ってしまいます。 嫌われていると思っていた人に話をしてみたら、そんな事ひとつも思ってないよ?大丈夫だよ?と言われたのですが、表情を読めば私に対して良く思っていないような感じに見えるので、「本心では嫌いだけど大人の対応をしてくれているんだ」と疑心暗鬼になってしまって辛いです。 他人の機嫌を損ねるのが怖いですし、自分を否定されるのが怖いです。 死を考える事は無くなりましたが、1日1日を終えるのが精一杯です。 もっと自由に生きられたらどんなに楽しい人生になるんだろう…。 自分なりに改善策を調べ、何度も何度も実行していますが、なかなか考え方が変わりません。 とにかく生きづらいです。 どうすれば楽に生きられるでしょうか?

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必要以上の罪悪感を抱かなくする為には…?

最近、ちょっとしたことに罪悪感を感じてしまいます。勿論、謝るべきだなと思った事は直ぐ謝るのですが、普通の人なら気にしないようなことに対しても、謝った方がいいのかな?って何に対してもそう思ってしまうときがあります。 例えるなら、外に出かけてて、壁にカバン、もしくは手が軽くぶつかっただけでも、傷付けてしまっていてはどうしようと思って確認しても傷も何一つ無くても、明らかに自分がぶつけたところとは違う所に傷を見付けた時も、実は私がしたんじゃないか?ってモヤモヤしてしまったり、他にも普通の人なら謝らないような小さな事に対しても罪悪感を凄く感じてしまい常に謝ろうか考えてしまいます。 ですが、最近は、その何に対しても罪悪感を感じて謝ろうとするのは、相手を思って謝ろうとしてるのではなく、自分のこの何に対しても感じる罪悪感を消そうとして気持ちを押し付けようとしてるだけだと思うようになりました。 本当に相手を思うのなら、時と状況を見極めて、何の為に謝るのかを考え、相手のためになることをするべきだと思うのですが、普通なら気にしない小さな事でも、申し訳ないことをしたと思い、凄く罪悪感が出てきてしまいます。 特に、大きな失敗した時やメンタルが落ち込んでる時にこういう風になりやすいです。 どうしたら、必要以上の罪悪感を感じなく、小さな事に対して動じなくいられるような精神力を付け穏やかにいられるようになりますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ