純粋な心で親切にできない
20代女性。
私は困っている人がいたらすぐにお手伝いをするタイプの人間です。
道を聞かれたりすると時間が許す限り目的地までご一緒しますし、明らかに困っているような人を見かけたら「何かお手伝いできることはありますか?」と自分から話しかけたりもします。(もちろん、必要ないと言われればそれ以上のことはしません。)
今まで、「こんな親切なお嬢さんがいるなんて仏様に感謝したい」とか、「あなたみたいな心の優しい人はぜひうちの会社で働いてほしい」とか、たくさんの褒め言葉をいただきました。
しかし、最近ふと思ったのです。
私は心が優しいのではなくて、「親切にしている私」に陶酔しているだけではないか?
純粋に困っている人を助けたいのではなくて、「困っている人を助けてあげる私ってステキ」と思いたいだけなのではないか?
と思ったのです。
助けてあげるという言い方からも分かるように、これって、ものすごく上から目線で傲慢な考え方ですよね。
周りの人は「面倒くさいし時間がもったいないから絶対に道案内なんてしない」「困っている人がいたら見ないフリをして通り過ぎる」という人が多いのです。
もちろん困っている人をほうっておくのは良くないことだとは思いますが、この方たちのほうが心は純粋なのではないかと思えます。
だって、面倒→助けない→イヤな人間と思われようが構わない、と、態度が一貫しているからです。
その点私は、親切に見えるだけ余計にたちが悪いと思います。
邪な動機で人助けをして、お礼を言われて調子に乗っています。
周りを欺いていると思うのです。
くだらない自己顕示欲から手助けをするのはもうイヤです。
でも、困っている人を見捨ててはおけません。
道だって聞かれたら答えてあげたいです。
でも、どこかで「ありがとう」の言葉を期待している醜い自分がいます。
どうしたらこの傲慢な態度を改めて純粋に「人を助けたい」と思えますか?
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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真似から始まる
こんにちは。私も大乗師とおなじ、浄土宗です。ですが敢えて、真言宗っぽい話をします。浄土宗はお念仏ですが、真言宗は真言を唱えます。聞いても「何これ?」という秘密の言葉です。普通の日本人が聞いても意味不明。でも唱えます。それは、「仏様の真似をしている」のです。徹底的に真似することで、仏様に近づこうという宗旨なのです。
そう、私たちの行動は、ほとんど真似から始まっています。学ぶの語源は真似ぶ。気持ちから始まっていないのです!
でも、それを続けることで心が伴ってくる。心とか自発性というのは、行動によって変化する傾向のことです。
私たちが何度も南無阿弥陀仏を唱えるのも、そんなメカニズムに乗っていると私は考えています。続けることで、心が変わる。あなたも、今までお礼を言ってくれた人たちがいるから続けられるのでしょう?何と有り難いこと。そうして燃料補給して貰いながら、私たちは行為を積み上げて行くのです。
迷いながら始めたお念仏も、それによって心が付いてくる。めげたり諦めたりしなければ、つまりやめなければ必ずそうなります。
迷いながら、続ければ良いのです。
偽善上等
まな様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
拙生も昔は、自己陶酔型の傲慢な、なんちゃってミスターボランティアでした。
でも、無駄にならず、色々と学ぶことは大きかったように存じます。このhasunohaにも活かせていることもたくさんあります。
大乗様もおっしゃられていますが、慢心を諫めるためにも、人の為と書いて「偽」とあるように、実は「人の為」、「他の為」にすることなど、所詮は「偽善だ」とぐらいに思っておくのが必要であるかと今は思っています。
そして、例え偽善で行った善い行いでも、それで実際に助かった方、救われた方、癒された方がいるのであれば、動機はどうであれ、善い行いによる結果は結果として、良かったと思うべきであるとは存じます。
「何もやらないよりかは、やる偽善」です。
偽善でも、何もやらないよりかははるかに良いと思います。
まあ、「情けは人の為ならず」と言うように、「偽善」でも、その善い結果は、回り回ってきっといずれ自分の為にもなるぐらいで考えておくのも良いでしょう。
「困っている人を見捨ててはおけません」・・ありがとうございます。この慈悲の御心はこれからもどうか大切になさられて下さいませ。
川口英俊 合掌
「行(おこない)」を重視しましょ。
まなさん初めまして、
私にもその気持ちよくわかります。
そういう自分に気づいちゃったんですよね。
でも気づいただけ良いと思いますし、
「汚い」自分に素直に目を向けることは大切なことだと思います。
私の宗派は浄土宗という宗派で
なにをさておきまず「愚者の自覚」
「おろかものの自覚」が大事だと説きます。
私たちはみなおろかものなんだ。
そこから出発しましょう。
神や仏じゃあるまいし。
いや、その自覚に立たねば神や仏に手を合わせられないのです。
話が横道それかけましたが、
私たちの心は、私たちが思っているより不安定で、様々なことを思い、考えてとどまらず。
まるで暴れまわる馬の如しです。
そんな暴れ馬を乗りこなしてから良い行いをしようとすれば一生良いことなんてできないかもしれません。
浄土宗の法然というお方は
心はともかく、とりあえずお念仏しなさい。
お念仏(なむあみだぶつ)を繰り返し繰り返しとなえていく中に自然と心が落ち着いたり、信じられるようになっていくから。
とおっしゃっています。
偽善だから、私の邪な心では、
などと思わないでください。
どのような心であっても
まなさんの行いは素晴らしいのです。
ぜひ、その素晴らしい行いを続けていってください。
その行いを続ける中におのずと、
他人のためにしていたりする自分に、気づくでしょう。
心は思い通りになりません。
その素晴らしいおこない(行)
に導かれて心が清くなるのです。
質問者からのお礼
3人のお坊様、ご回答ありがとうございました。
心がどうあれ、まずは行動というお話、とても身にしみました。
まだまだ目立ちたがり屋で傲慢な心を持った私ですが、私にできることは今後も進んでやっていこうと思いました。
偽善者=悪、と思わずに、「偽善でも誰かが喜べばそれでいいか」と気楽に構えることにします。
本当にありがとうございました。