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疲れています。

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高1の息子が学校へ二学期になり行きたくないといいだしました。友人関係です。午前中だけ保健室に登校し午後は家に帰りたいます。毎日送り迎えでしかも人と顔を合わせなくないというので早めの登校で朝はバタバタします。自閉症の弟もいるためそちらにも手がかかります。このような状態がいつまで続くが不安です。とうとう私もダウンしてしまいました。それでも前向きになる方法を考えています。何かあれば教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、あなたはあなたを生きる。子らは子らを生きさせる。

色んなお坊さんの回答を聴いて参考になさってください。
まず、できることをやるべき時に「だけ」やること。無駄に考えて無駄に悩まないことです。
深夜に学校へ行かせようったって深夜は学校に行く必要がありませんから、考えても無益なことは考えないこと。
まず、以下の事を考えてみましょう。
学校に行かせたいのか。
学校に行きさえすればいいのか。
イジメられたり、イヤな思いをわが子がしていてもそれでも行かせるべきか。
「私」が行かせたいのか。子供は行きたいのか。
何が、誰が、どんな原因でいきたくなくなったのか。
理由は外ではなく、自分にあるのではないのかどうか。
夫婦関係が子供に与えた影響はどうであるか。それが原因なら夫婦としてどうあるべきか。
人生においての本当の学びとは何か。
明日学校行って不幸せになるのと今日幸せになるのとどっちがいいか。
いつか、明日、来週、来月、来年、いつの日かの幸せを追っているが、その日は来たか。
来ていないならばこれから先そういう求め方で幸せは来るのか。
私は子供がどうしても学校に行きたくないのであれば行かなくていいと思います。
その代り「学び」はやめさせないことです。
学校に行かない人間の道を歩むのであれば、その中で本物になることです。
私は学校の授業というものには魅力を感じたことはありません。
それよりも人間に興味や魅力を感じるものです。
自分を向上させたり、男の子だったら強さを求めたり、とにかく本人が困難に出くわした時、その対処法を教えてあげることです。ただし、本人が納得のいく形で。
「学校行かなきゃ×ダメ×だ」とか「他の子はいってるよ(お前は言ってないから×ダメ×だ)みたく、親として否定をしないことです。ただでさえ学校生活で拒絶、否定、ダメ出しをされてきたのですから、それをしないこと。
三者間通話でよければ、私のところに電話をしてください。
親が行かせたい、親が「行くべきだ」と思うから行かせたい、というのは子供にとっての現実生活を無視した強行です。あなたがあなたのルールの中で行かせたい、というのは親のエゴです。一度忘れてください。まず彼にとってイヤな生徒がいるからそいつと一緒に居たくないのです。
そういう事の話し合いを親子と、学校と、相手の生徒の保護者と、です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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