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お坊さんとは

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有り難し有り難し 34

宗派によって死後の世界に対する、考えはどうちがいますか?

お坊さんは、死後の世界や霊を信じていない方が多いですか?
お坊さんにお経を上げて頂く遺族は、亡くなった家族の霊の成仏を願ってお坊さんを御呼びします。家族の為にお経を上げて下さっていると信じています。そこで、霊を信じていないお坊さんは、しきたりの為にお経を上げて下さるのですか?それとも、遺族の為に、お経を上げて下さるのですか?良くわからないのです。
御釈迦様は、生きている人の為に、お経をつくられたと思いますが、今はお坊さんは誰のためにお経を上げているんですか?
何故、お坊さんは、お経を上げるのですか?
切実な疑問です。お答え頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている

私としては、
たとえ「亡くなった家族(本人)の霊の成仏を願ってお坊さんを御呼び」いただいたとしても、そのためにお経を上げているわけではありません。
(もちろん方便として読経により成仏したという安心感を得る側面もあるでしょう…)

浄土真宗としては私たちの努力に関係なく、亡くなった方は浄土に往生し仏に成るといただいております。
いや、もっと突っ込んでいうならば、亡くなった方が実際に成仏しているかどうかはわからなくとも、残された家族にとってはいのちの真実を教えてくださる仏としてはたらいてくださるといただいております。
そこに読経の有無は関係ありません。

では、なぜ葬儀において読経するのか。

一つには、「娑婆の言葉では間に合わない」という事実があります。いのちの終わりという大きな大きな出来事に際し、

「ご愁傷様です」「お悔み申し上げます」「寂しいことになりました」「ご冥福を」

そんな、この世の言葉では何か表現が間に合わないのです。真実の言葉たる「お経」をいただくより他ないのです。
そこに「成仏に読経は関係ない」と言いながらも、気が付けばそのために読経している自らの姿が炙り出されたりもします。どこまでも真実足りえない私は真実の言葉に依るしかないのです。

もう一つに、先の理由の後半と重なりますが、残された家族とともにこのいのちの終わりという大きな事実の前に、共に真実を学びたい、分かち合いたいという願いがあります。
「御釈迦様は、生きている人の為に、お経をつくられたと思います」とおっしゃる通り、そこには今を生きる私たちが聞くべき法(教え)が説かれています。
日常の生活において中々その教えを求めようとしない我々でありますが、今その「いのちの終わり」という場においてこそ、いよいよ真実の言葉を聞かねばならないのではないでしょうか。
そのために浄土真宗では読経後のお説教(法話)を大切にしております。

正に、故人の成仏を願って読経を行うという、「亡き人を案ずる我々」が実は、お前たちこそお経を聞きなさいと、「亡き人から案ぜられている」のであります。

その時に故人は真実をお伝えくださる仏としておはたらきになってくださっています。故人の願い、仏の願いをともにお経等の教えに聞いていきましょう。

合掌

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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生まれかわった新しい命の幸せを願う

仏教では輪廻転生を前提に考えますから、死者の「霊」と言っても、実際には死者は新しい生きものに生まれかわっているはずなのです。
つまり、誰かが亡くなったあとに、宇宙のどこかに生まれた赤ちゃん(人間とは限りません。極楽浄土に生まれた場合は菩薩様になっています。)がいるはずなのです。
その新しい命、亡くなった方々に代わってどこかで生まれた赤ちゃん達、の幸せを願って、
お経を読んだり念仏をとなえたりしています。
結局は、生きとし生けるもの全ての幸せを願っているのです。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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御霊はあります

拝読させて頂きました。
私はお亡くなりになられた方が仏様のお導きをしっかりとお受けになられこの世を離れて仏様の極楽浄土にお生まれなさって頂きます様にと真心込めて仏様にただひたすら願いお念仏おとなえさせて頂きます。
南無阿弥陀仏はどうか無限の光をもった無限の生命をもった仏様どうかその方を仏様お導きなさってください、そして仏様の極楽浄土にお生まれさせて頂き、大切なご先祖様達と再び巡り会い再会の喜びを分かち合い、そしてその方をご成仏させて頂きます様にと願うお言葉です。
その願いを込めたお念仏を仏様はお聞き届け頂き必ずやその方をお導きなさってくださいます。
これはお釈迦様がお説きなされた浄土三部経にも書かれた真のことです。
そして私達は脈々と先人からそのことを受け継いで大切な亡き方をご供養しお送りしてきたのです。
私は霊はあると信じております。そしてその御霊はこの世の執着を離れて正しく仏様の浄土へと旅立っていかれるのです。
この世は嘘偽りのある世界です。ここでは人は生きることに大変苦労してなかなか正しく生きていくことができない世界です。
この世生命を全うなさった暁には私達は様々な執着や我欲を離れて仏様のもとにて正しい真の智慧を授けて頂き、そしてその御霊は芯から安定して安心して成仏していくことができるのです。
説明について至らぬ点もあるかと思います。またぜひとも疑問ございましたらご質問なさってくださいね。
あなたをいつでもお待ち申し上げます。
南無阿弥陀仏

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

前回も今回も、ご丁寧にお言葉を頂来ましてありがとうございます。仏教の教えは、「無記」
なのは存じておりました。しかし、純粋にお坊さんの意見や考えを知りたかったので、前回は死後の世界について質問をさせて頂来ました。
私は、御釈迦様の仏教の教えを学び、悟りを開く事を、煩悩に気付く様に人々に説くお坊さんは素晴らしいと思っております。お言葉を頂き、私も、亡くなった方の成仏の為に、お経を上げる必要はあまりないと思います。しかし、お通夜やお葬式でお経を上げて頂く事のは、遺族が亡くなった方と死別する際に必ず必要となる欠けがえのない事で、命の重さをしかと感じる、亡くなった方の人生を学べる大切な一時だと思いました。

お言葉を頂来まして誠にありがとうございます。私は、仏教は死後の世界については、「無記」だと存じ上げておりました。「無記」というのは、否定も肯定もしないことと仰るお坊さんもいるかと思います。しかし、あえて死後の世界について質問をさせて頂く事で、お坊さん皆様の意見をお聞きすることが出来まして、とても勉強になりました。お坊さんの中には、霊は、いない。霊の存在は煩悩が生み出したもので、迷信ととられる方も、仏教は、死後の世界については「無記」だと回答される方、この2つの見解が多いように思いました。しかし、御霊はおります。と御答えを頂いて、私も真に霊はいると思っております。南無阿弥陀仏は、仰って頂いた通り、亡くなった方の成仏を願う言葉だと私も捉えておりました。私は、御釈迦様は霊が存在することを認めることは煩悩ではないと仰られるのではないかと思っております。霊の存在を恐れることを煩悩ではないかと思います。霊は、怨霊ではなく、姿が生きている人の目に捉えにくいだけで、生きている私達と同じ精神を持った同じ欠けがえのない人だと思います。生きている人も亡くなった人も煩悩が少なくなれば毎日幸せに暮らせますね。

お言葉を頂きまして誠にありがとうございます。人が亡くなった代わりに、必ず生まれ変わるというのは私も確かにあると思いました。
生きとし生ける者の全ての幸せを願って頂き、心からありがたく思っております。

「お坊さんのことを知りたい」問答一覧

他人がやってる寺を兼務で引き受けたくない

40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?

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お坊さんの勤務形態について教えて下さい

離婚問題で悩んでいる時、バツイチのお坊さんと知り合いました。最初彼から遊びの誘いがあり。失礼な人と断りました。今は友人として付き合っています。 友人関係が続いたのは、後日先日の行動が人として大変失礼な対応だった。反省していると、彼から謝罪があったからです。その際にも、ちゃんとしたお付き合いの話はありませんでした。 私は元夫から多種のDVをうけ男性不信になりました。いつか恋愛出来たらいいなと夢見ながら、男性が怖いです。結婚は絶対に無いです。 加えて彼は寺の跡取りで一緒に家庭を築き、寺に入り子供を産める人を探しています。私は子供を産むこともできません。だからあえてハッキリさせないようにしてました。 その後仲良くなるにつれ、プライベートを明かさなかった彼が以前より私にプライベートを見せるようになりました。気付けば毎日メールで連絡をし、月2~3回程度、昼夜時間を割いては健全に遊んでいます。トキメキはないけど気持ちは【凪】です。友達以上恋人未満の1番いい感じの時 自然と今以上仲良くなる予感があり、仲良くなりたそうな行動が見えたり、泊りがけで旅行に行くような話もチラホラ、ただ、お坊さんの勤務形態ってどうなんでしょう? 私は会社員で有給もあります。毎月月末に翌月の予定が未定。次のデートの約束は大抵決まりません。休みがまだ決まらない。分からないって、そんな事ありますか?もうずっとそんな状態で、深く付き合いたくないから、遠回しにそう言ってるのだと思うようになりました。 嫌なら嫌と言って欲しいのに旅行は行きたい、遊ぶのも仕事終わりなら全然大丈夫、凄いケチなのに自分から遊びにも誘って車も出してくれます。 どうゆうこと?と、モヤモヤしてますが、でも誰にも聞けず、彼もはっきり言わないので、やっぱり遊ばれているのでは?と思う反面、彼は嘘をつくのがべらぼうに下手で、私には嘘をついた事がない為、もしかして本当なのかも?と思いたい気持ちからこちらにお聞きしました。 休みが分かりにくいって業界的に本当ですか?何でですか?ちなみに彼は実家の住職をしながら、別のお寺に本業で務めています。本業の休みの日に実家で法事をしたりしています。 この関係がハッピーエンドにはならないと分かっていますが、一緒にいるだけで気持ちが穏やかになれる相手です。嘘ばかりの元夫の毒が抜けていく気がして魂が救われています。

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尊重とはどこまでですか?

ハスノハのお坊さまのおかげで「他者を尊重することが大事」なのはよくわかったのですが、尊重とはどこまでするものでしょうか? モラルに欠けた発言なども尊重するべきなのかと考えたりします。そもそもモラルというのも曖昧だと思うのです。人によって違うと思うので。 「平和だからこそ戦争が必要だ」なんて言う人もいると思うのです。これは一般的には理解されないし尊重されないことだと思いますが、「他者を尊重することが大事」ならそれすらも認めることになるのかなと思います。 これが"尊重"なら、もし私が仮にいじめを受けたとしても「これ(いじめ)すらもその人の一部なのだな...」と思うのではないかと思います。 いじめや犯罪や浮気や不倫など、世界の"事"全てです。 社会のルールを基準にするのかな?とも思いましたが、それは"社会の思い込み"の可能性もあると思いますし、何よりそれは「他者を尊重できている」のでしょうか? 社会のルールという名の"正義"で個人個人を存外に扱っているのでは?と思います。 倫理も一緒です。全て人によって違うと思うのです。 例. Aさん「別に人をいじめてもいいでしょ?」← これも"Aさんの考え"で「Aさんの一部」なのかなと捉えてしまいます。この場合、Aさんは他者を尊重できていないと思います。ですが、それを注意すればAさんの価値観や考えを否定している(尊重できていない)ことになるのかなと思います。 そうなると無関心に見えると思いますし、この文章の通り「〜と思います」や「〜なのかな」などボヤっとしてハッキリしなくなると思います。 その結果、他人が「〜でしょ」や「〜です」と言うことに神経質になると思います。なぜなら、それがその人の思い込みの可能性があるからです。 でも、その人の思い込み = その人の意見なのでモヤモヤしても無理して尊重する。 尊重とはどこまでですか? 行き過ぎれば無関心に見えてきます。"相手とは違う自分の意見"を言えば否定されていると思われ、注意すれば「他者の意見を尊重できていない」ことになり、じゃあ何も言わないとなれば、無関心と見える。 お坊さまは尊重する際、何を"基準"に持ってらっしゃいますか? 乱文で申し訳ございません。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ