お坊さんにとっての理想の死は?
ワンピースのカイドウも言ってます。
「死は人の完成だ」と。
お坊さん達にとって理想の死はどんな死ですか?
苦しむ死ですか?それとも安楽死ですか?
それとも、もっと別の死ですか?
教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
“同じでない”ということ
考えてみたら当たり前ですけれども、死に方って人それぞれなのですよね。ですからお寺でするお葬式もですね、形式的には同じような感じがするかもしれませんが、お葬式毎に全然雰囲気が違うんですよ。故人の遺したものも、遺された方々もまったく“同じでない”からだと思います。
今回のご質問を受け、さて(自分は)どんな死に方をしたいのかと考えておりましたら、不思議といつの間にかどんな生き方をしたいかを考え始めていることに気が付きました。のぞむ死に方とは、すなわちのぞむ生き方なのかもしれませんね。
生き方も死に方も千差万別、ひとつひとつが同じでないからこそ尊いと思いますが、やはり人が死ぬ時にはいずれも「死ぬしかなくて死ぬ」ものなのではないでしょうか。もちろん拙僧などでもわが国の哀しむべき現実をまったく知らないわけではありませんが、究極的には、これは自ら選べない(選ぼうと思って選べるようなものではない)ような気がいたします。
人ひとり、生まれるしかなくて生まれ、生きるしかなく生き、死ぬしかなくて死んで逝く。人間、その時々の自分らしさというようなものがあるとも思うのですけれども、わたくしなどは、最期も自分らしく死ねれば本望ですかね。それが苦しいものでも安楽なものでも、どちらでも。(ほとんど何の答えにもなっていないような答えでスミマセン…。)
気が付けば、ほとんどの事も物も自ら請い求めるまもなく、ただひたすらにいただくばかり。本当に有り難いかぎりなのですけれども、お坊さんとしてはやはり、「自己の究明」ということだけはやり残しがないようにしておきたいです。おかげさまで、あらためてこの道を精進しようと思えました。有難うございました。
そわか合掌
理想の死
苦しんで死にたいと考える人はいないと思いますんで、死を受け入れて安らかに死ぬか、最後まで生きることに執着して死ぬかどちらかということに答えたいと思います。
生まれたからには死ぬということは必然です。生があれば死がある。だから当然のこととして死を受け入れるのが僧侶にとっての死との向き合い方だと思います。
但し、これは『世間で生きる一人の人間である』という感覚をはずした考えです。
私は一人の人間です。命に最後まで執着します。私は僧侶になる前、世間で働いていました。父親が経営に疎い人で私が継いだ時には寺は死に体でした。そこからやっと持ち直しかけている状況です。だからこそ死にたくないです。
話を戻します。私にとっての理想の死は、やるべきこと、やりたいことを全てやり切って死ぬことでしょうか。
思い残すことなく死にたいですね。
ご期待の答えに添えないかも知れません。申し訳ございません。
十人十色
死は今日かも明日かももっと先かも、知れないですね。
事件、事故、怪我、病…
わからないです。
御伝鈔にもありますように、
「親鸞聖人は、 弘長二年の十一月下旬頃より、 少しばかり病気になられたご様子であった。
それからは世間のことを口にされず、 ただ阿弥陀仏のご恩の深いことを述べ、 他のことを声に出すことなく、 ひたすら念仏を称えて絶えることがなかった」
これこそが究極の理想です。
日頃から「あの人が…」と陰口を言ったり、
誰かを支配・コントロールしようとしたり、
「お金がーー」
「跡継ぎがーー」と
心配や不安ばかりを口にして
死ぬのだけは避けたいです。
死んだらお任せするより他にないのですから。
それならば、親鸞聖人のように言葉にできない感謝や想いをひたすら念仏することで死を受け入れ、心を落ち着かせることが理想なのだと私は思います。
ですが、現実は「痛い、助けて、死にたくない!!!」となるのも人間らしくて良いし、
カッコ悪いとも思わないです。
定期的にこのようなことを考えてアウトプットするのはとても良いですね。
ご縁をありがとうございました。
質問者からのお礼
様々なご意見ありがとうございました。
勉強になりました。