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動物を車でひいてしまいました

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先程、仕事の帰り道に国道で動物を車でひいてしまいました。狐かタヌキか分かりませんが…狐かもしれません。神社仏閣が好きで地元のお稲荷様に日々お参りしたりしているだけに何とも言えない気持ちです。田舎の国道ですが、気づいた時遅しで…どぉしたら良いのでしょう。気持ちが落ち着きません。。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

キチンと供養してあげてください。

こんにちは赤いキツネと緑の丹下です。
ウチの境内にはタヌキがおってさ、ニワトリみんな食っちまっただ。タヌキだったらOKッス。(OKなんかい)
キツネ?
この季節、納屋で悪さをしているキツネをみると火縄銃でうっかり撃ち殺しちゃうことってありますよね。
(ねぇよ)
仕留めて、その場に行ってみると…すると、そこには沢山の…🍄
「ごん、お前だったのか、いつもウニをくれたのは。」
クリかと思いきや、それはウニだったのです。
なんてことがあるものです。(名作台無し)
さて、赤いキツネか緑のタヌキかは、今から確認はできませんから、あまり深く考えないことです。
ひょっとしたら違う動物かも。
うちの寺にはハクビシンが住みついていまして、屋根裏をフンだらけにしてしまい、人間にとって害獣ですから、駆除してくれてありがとうございます。OKっす、OK.(OKなんかい)
さて、ここからが本題です。
キツネかタヌキか、栗かウニかはわかりませんが、(※注 この回答僧は心の痛みを和らげるためにジョークを多様します。)
実は、私も山形県の教習所で車の免許をとった時に、道で倒れていたタヌキをひいてしまいました。
教官殿「あー、タヌキの死骸だ、よけろよけろ!」
丹下め「えー、どこどこどこですか」
教官殿「あー、ほらほら、そこそこ!」
丹下め「あー!」ごん👼
教官殿「(´Д`)オイオイ踏むなよー」
丹下め「(ToT)すみませーん」
ひょっとしたらまだ息があったかもしれませんが、とどめをさして楽にしてあげたかもしれません。
ですが、故意ではなかったのです。あなたもそうでしょう。
人間界にたまたま出て来ちゃっただけなのです。
生きていれば微生物なんかどれほど殺しているかわかりません。
生物の大きさがデカくなればなるほど、何だか悪い気がするのが私たちです。
故意ではなかった。
ですが、その動物の供養をしてあげてください。
あなたの動物をいたわる気持ちをあるべき方向へ向けるためにも。
仕方ねーや、でそこに向き合う気持ちがないと人間、心がどんどん荒んでいきます。
だからといって、私が悪かったと一生自分を責め続けても、結果が変わる訳でもありません。だからと言って開き直っても自身の良心にウソをつくことになり、顔も言動もどんどんMADになる。
だから、ちゃんと手を合わせて後ろめたい気持ちがない様に供養してあげて下さい。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。少し落ち着いて来ました💧そして今日手を合わせて来ました。まだ何とも言えない気持ちですが…💧

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