結果と原因 思考の現実化 シンクロニシティ
タイトルのことを理解し体現しました。全ては運命なのか人それぞれ差や違いや個性があるのでしょうか。人生を学びとすると学ぼうとする人気づく人の差や違いは生まれてからの親や環境の要因だと思います。その親の祖先を辿って宇宙創造まで遡ると全ては運命なのではと思い。他の付加価値を付けず本質的な極論を言うとそのような気がしました。的外れなことを言っていたらはずかしながら申し訳ないですがご指摘いただきたいです。今こうして打ったのもこうなるべくしてなったのだと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたと私は根っこで繋がってますよ!
運命がもし定まっていたら、人は目標に向かい努力する希望を失います。
親や環境のせいにするのは、人生の課題から逃げる口実を作っているだけに過ぎません。
宇宙ってどうやってできたんでしょうね。
今、アンドロメダ銀河がみられる季節ですよ!
あなたは、とても心配りが出来る方やなって感じました。
そうかもしれませんね
全ては運命かもしれませんね。
人類が生まれたのも、お釈迦様が生まれたのも、私が今回答を書いているのも、全て運命かもしれませんね。
あなたの考えも間違いではないと思います。
運命とはいえ、どれ1つとっても、全て奇跡の連続ですね。
その奇跡の上で私達も生まれてきました。
今も奇跡的に生かされています。
その奇跡に私達は感謝するしかありません。
もう少しイケメンだったらとか、もう少し金持ちだったらとか、もう少し頭が良かったらとか、もう少し健康だったらとか、人間なら誰しも不満は際限なくありますが、今こうして生きている奇跡、この奇跡を感謝し大切にしたいものです。
運命を変えることは出来ないかもしれません。
しかし、知ることのできない未来の運命にばかり心を囚われないで、少しでも良い未来に向かって歩もうとする心を持ち、体を動かすことはできると思います。
それもまた運命ではないでしょうか。
割とどうでもいい
言葉の定義がよく分からないので、そう簡単に言われると迷いますが。
…つまり、「運命」というのが「誰か、何か」によって定められたものと想定しておられますか?「運命」という言葉でしか表せないものと想定していますか?
私の考えでは、「前者であれば違うと思う。後者であれば”そうかも”と思う」です。我々浄土宗も、「阿弥陀様が救って下さいます」「どんな力で?」と聞かれれば「不思議な力で。私たちの思いや言葉の及ばないところで」と答えますのでね。
ただ、「自分が考えたり決断したり努力するのも運命だ」というなら、粛々とやらせて貰うだけです。この定義だと「運命に逆らおうとする」ことすら「運命」に含まれちゃうんでしょ?
だから、「運命という言葉の誤用=意味のない使い方」かな、と思います。なので、「割とどうでもいい」が私からの回答です。何が「付加価値」で、何が「本質の極限」なのか、見極めもできないし。
問いについて
大きな宇宙の働きの中において、(一個人としての)主体的な意思決定は存在するのか?
と、いう趣旨の理解で回答させて頂きますね。
さて、答えはYesであり同時にNoでもあります。
1)宇宙からの働きかけ(あなたが仰る“運命”とはこのことを指すのだと思います。)と人間の主体的な意思決定の方向性が一致したとき、この両者(Yes・No)は矛盾なく成立します。宇宙の意思=ワタシの意思かつ宇宙の意思+ワタシの意思になり、ワタシの意思は単体では存在しなくなるからです。
2)そうでないときは、「宇宙からの働きかけ」を「主体的な意思決定」と誤認したり、また逆に「主体的な意思決定」を「宇宙からの働きかけ」として、誤認します。そして、混乱が生じます。故に、両者を判別することは、不可能といえるでしょう。
1)は、人生の決定権を自分に与えた条件下で起こります。2)は、それを放棄した条件下で起こります。
ちなみに、思考の現実化やシンクロニシティとは、2)から1)へと向かっていくときに起こりうる現象のことを指します。また、仏道における修行とは、2)から1)への状況下へ移行することを指します。
…堅苦しくてごめんなさい!では、後半戦。別の角度からお話します。
あなたのおっしゃる「運命」、すなわち「宇宙からの働きかけ」とは、一体どのようなものなのでしょうか?
端的にいうと、「あなたも宇宙の一部であることを、あなたに与えられた材料で表現して下さい」
ということです。
蛇足ですが、これを仏教的な語り口にすると、「人は生まれながらにして仏である。修行の継続によってそれを自覚せよ」ということになります。
さて、ここで言う「与えられた材料」とは、この世に生まれた際の個性(環境や能力、社会的な出来事等を含む)のことです。
そして、それをどう加工していくか?これは、先ほど述べた「主体的な意思決定」によって指揮されます。つまりあなたには、与えられた材料を好きに調理できる、いわばプロセスの自由が存在しているのです。
したがって、家庭環境などはあくまで材料の一部であり、それをどう加工するかは、主体的な意思決定の采配下なのです。
…まあ、平たく言うと、このサイトで質問をした事実は、あなたが与えられた「材料」+あなたの「主体的な意思決定」の複合体というわけです。
参考になれば幸いです。
合掌
質問者からのお礼
こんなことを考えても無気力になるだけなのはわかっているのですが。またこの疑問を解き明かそうと身体が反応するのも。こういう思考にたどり着く今までの人生も運命なのかと思えてきます。とりあえず自分なりに生きてみますありがとうございました。