人間の男に生まれることは、前世の悪行の報いでしょうか。
人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。
こんな辛い生は無いと思っております。
独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか
世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。
果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。
前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。
どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
力抜いて生きてくださいませ…
「人間の男に生まれたこと」をお嘆きのようですが、ならば「人間の女に生まれたこと」も同じように辛いと思いますよ。家内を見ていて思います…。
随分辛い思いをされておられるようですが、それ程までに辛い環境にいらっしゃるのでしょうか? もしかして、御自身でそう思い込んでおられるだけかも知れません。どんな環境にあっても、辛いと思えば辛いし、恵まれていると思えば幸せですしね。
ご心配されておられるような「人間の男」に生まれ変わることはありません。次生は浄土の仏と生まれさせて頂くとお聞かせ頂いております。
それが嫌なら輪廻をお考えになるのでしょうが、少なくとも次生に人間に生まれることはあり得ません。輪廻の六道の世界から言えば、多分間違いなく「地獄」に行くことになります。鬼にこの身体切り刻まれ、煮て焼かれる世界です。
これは今やっていることを、今までやってきたことを思えば納得が出来ます。蚊・ゴキブリを叩きつぶし、血の滴るステーキほおばりながら、次は「人間の男に生まれたくない」なんて贅沢は言えるはずもなく、言う必要もありません。
あなたを嘆かせているのは、あなた自身の「煩悩」です。煩悩を滅すれば嘆くことはなくなります。でも煩悩を断ったならば死んでしまいます。だから私達は、悩み苦しみながら生きていくしかありません。こんな私の為に、次生に仏のいのちを約束してくださった仏様がみえます。
それを信じる・信じないというのではなく、なぜ仏教では私に仏のいのちを約束するなんて「ワケわからないこと」言うんだろう…と問うて下さいませ。「どうにもならない」この私の為であった頂けるかどうかです。ここが自身の悩み苦しみとの本当の出遇いとなります。
そこに本当に出遇えたら、「悩み苦しみ」を諦めて、それらと付き合って、それらと一緒に生きていく道筋が明かされます。
御自身の思いの本質とどうか向き合ってくださいませ…賢明なるあなたなれば、必ず歩める道筋と思います。無駄な力の抜けた安らぎの人生がひらかれるはずです。
逆に考えてみたら・・・
もう、ご質問と回答の返信もされているので、これ以上は必要ないかと思いましたが、一言だけ。
>どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
このご質問を逆にから考えると、何故、今回は、男として誕生されてきたのでしょか?
となります。
意味があって、男として誕生され、様々な経験、体験をされてこられました。
苦しいことも、悲しいことも、もちろん楽しいこともあったでしょう。
すべてが、ご自身の人生「男」として経験されること必要があったと思えませんか。
そんなことはない!と否定されそうですが、一つの考え方として、こういう考え方もあるということです。
ゆえに、すべてのことを受け入れてしまった方が楽な生き方かもしれません。
「盲亀浮木」
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
確かに私たちは迷い苦しみの世界である人間の世界に生まれてしまっております。
しかし、この人に生まれることの難しさたるや・・
仏教では、「盲亀浮木」という譬えがございまして、大海に住む目の見えない老亀が、百年に一度海面に浮き上がってくる時に、たまたまそこに流れてきた穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むというぐらいに、人として生まれるのは難しいとされています。更に仏様の教えのある世界に生まれて、仏様の教えを学び修せられることも、尚もって難しいことであると言われています。
また、人は天・修羅と共に、六道輪廻の中でも「三善趣」と言われるだけに、迷い苦しみの中にあるのは変わりませんが、畜生・餓鬼・地獄(三悪趣)に比べれば、はるかにましな存在であると言えます。
その上、三善趣であっても、天と修羅では、「有暇具足」(悟り・涅槃へと向かうための八つの有暇と十の具足を備えている)を円満には得難いため、実際は人のみが、仏様の教えを修せられるための絶好の機会となるだけに、できる限り無駄に過ごしたくないものとなります。
人して生まれたのは、ある程度、過去世における善き業・カルマの因縁(原因と条件)があってのことであるとも考えられます。私たちは、何とかこの機会を逃さずに、心の資質の向上のためにも、仏教の修習にしっかりと取り組んで参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
価値観に対する善し悪しに縛られることこそ悪業です
鶏心堂田舎小才子様
こんにちは。拝見させていただきました。
何に生まれてくるのか、どのような環境に生まれてくるのかについては、あくまで仏教徒の世界においては宿業によってということではありますが、少なくとも「人間」として生まれてくること自体は「善」であります。そもそも悪も善も個人の中の善し悪しの価値観ではなく、お釈迦様の教え、つまり仏法に「出遇えること」「成仏出来ること」が「善」でありますので鶏心堂田舎小才子さんは稀の中の稀で「善業」であると言えると思います。
問題は苦しさになっている「男とはこういうもの」という価値観に対して執着しているということではないかと思います。逆に言えば男性だからこそ享受してきた部分もあるのではないですか?そうして「自身の都合」によって自ら苦しみを生産することこそが「煩悩」であり、その心を清浄にする道で出遇えることが「善業」でありましょう。
なぜその事が気になるのかと言えば、心の中に「その価値観を認めている部分がある」からです。実は認めている自分が許せないのです。全く意味不明だったらそこまで心に残りません。あるいはその価値観を押しつけてきた「人」との「関係性」に起因する可能性もあります。例えば親にずっと言われ続けてきたとかです。私には文面からするに「人間関係」が見えますが違うのかもしれません。
価値観を押しつけられる煩わしさには共感できます。ただ鶏心堂田舎小才子さんが自身の人生に満足を得る事、日々の我が身に感謝することによって気にならなくなると思います。まずは形からでも結構ですので自分の周りにある当たり前に手を合わし感謝する実践から始めてみていただけたらと思います。心の底がつながりで満たされれば、あなたの中の価値観を気にしてしまう「疎外感」も癒やされることかと思います。
合掌
質問者からのお礼
ご回答、ありがとうございます。
《「悩み苦しみ」を諦めて、それらと付き合って、それらと一緒に生きていく道筋が明かされます。》のお言葉、できるかどうかわかりませんが、常に心掛けていこうと思います。
あらためて、生きるとは、難しいものと感じております。(これでは、まだまだ、肩の力が入りすぎていますね)
さらなる、ご助言感謝いたします。
「人間の男として生まれてきた意味」・「男とはこうあるべきだという価値観への違和感」・・・、今は、混沌としている状態です。性急に求めず、じっくりと付き合っていけるようやってみます。
因みに「男とは・・・」は、あの両親による長年に渡る刷り込みが影響しているのではないかとも思っております。未だ、両親は、「忌む」べき存在という呪縛から、離れられておりません。
さらなる、ご助言感謝いたします。
「人間の男として生まれてきた意味」・「男とはこうあるべきだという価値観への違和感」・・・、今は、混沌としている状態です。性急に求めず、じっくりと付き合っていけるようやってみます。
因みに「男とは・・・」は、あの両親による長年に渡る刷り込みが影響しているのではないかとも思っております。未だ、両親は、「忌む」べき存在という呪縛から、離れられておりません。
二重にコメントを入れてしまいました。
すみませんでした。