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死ぬとは何ぞや

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有り難し有り難し 10

タイトル、不躾に失礼します。
私は20代前半に一人、最近また一人と二人の親友と勝手に呼んでいた友人を亡くしました。
最初の一人は自宅で孤独死、死後数日経っていた為死因は不明。
もう一人はニュースにもなりましたが、同居する彼氏に睡眠中に殺されました。
当然の事ながらショックでした。
どちらの二人も何となく連絡が途絶えていたからです。(後者は何年もですが)
ですが…あまり他人には話せることではないのですが、彼女達は自分で決めてきた死去の日を迎え、また現世での問題はクリアされたから去っていったのでは…とも考えるのです。
実際、前者の友人の死を聞いたときは直感的に『これで良かったんだ、頑張ったよね』と思いました。
彼女は病気を抱えていましたがお互い特にそれについて話すことも何故かありませんでした。

私自身は死後の世界は知りません。
でも生まれて生きて、苦しいことを乗り越えるまで同じ問題にぶつかるのには意味があるんだと思います。
じゃあその山積みの問題をクリアできたら…??
そう考えると、彼女達の残された家族の事を考えたら私のこの考えは不謹慎な気がして…。
正直、この考えがある意味本当なら彼女達を羨ましく思ってしまう自分が近くにいるのです。
もしかしたらそう考えるのはある種の逃避なのか、とも。
うまく説明が出来ないのですが、この世から旅立った友人達の死は悲しいです。
だけど羨ましい。
けど死ねばこの世の苦しみから逃れられるとは思わない。
自分の課題が見つけられないからの嫉妬なのか何なのか…。
不謹慎過ぎて深く話が出来ないのでこちらで質問させて頂きます。
まとまりがなくて本当に申し訳ないのですが…。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死はゴールでもご褒美でもありません

私たちは生きていく上でいくつも課題を持っています。それはその通りです。

しかし、それらの課題が全て解決された結果、死が訪れるわけではありません。

人は因縁によって生を送り、また因縁によって死を迎えるだけです。

人は生を生として全うしなければなりません。それは死の時期や有様とは関係ありません。

人生の課題もまた因縁によって生じるものです。人の生の全期間にわたって課題は生じ続けます。

人生のスタート時点で、あらかじめクリアすべき課題の数が決まって用意されているわけではないのです。

死は生のゴールではありませんし、課題クリアのご褒美でもないのです。

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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。
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質問者からのお礼

まとまりのない文章に、丁寧なご回答感謝致します。
とても深くまだ理解する旅の途中ですが、よく考えてみます。
色々な意見を述べる自分が多数います。
確かに『問題をクリアできたからこの世を去る』と言うのは短絡的でそう考えてしまえば楽です。
色々な縁、判断、行動、一瞬の考えで道が違ってくるであろうことも想像できます。
その結果が早い死だと言うことも。
友人達の死は自分に取って何の意味があるのか…。
こんなことを考えてしまっている自分は人として何かが欠けているのか?
本当は悲しくないんじゃないか?
自問自答を繰り返すばかりですが…

言葉の意味を理解出来るまでよく考えてみます。
ありがとうございました。

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