私は死後地獄行でしょうか?
極楽浄土へ行くためには
戒律を守らなければならないと聞いたことがあります。
では戒律と私がしたことについて
殺生をしない
まずこれはどんな生き物とて殺してはいけないのですよね?
蚊やゴキブリなど殺していますし
肉や魚も食べています。
盗みをしない
盗みは少年時代よくやりました。
しかもつい数年前万引きをして
警察に捕まりました。
このことについては
反省しています。
酒を飲まない
ビールを飲んでます。
悪口を言わない
極力言わないようにしていますが
嫌なことされたり頭にくることされると
時に反論や悪口を言ってしまう時があります。
嘘を言わない
嘘はついたことはよくあります。
大人になってからは正直に生きたいと
思ってましたが会社などで働いていると
普通に本音を言うと怒られたり
敵対されいじめの標的にされた事がよくあります
そういう経験をして以来
時に思ってもいない嘘を言って
ごまかしその場を乗り切ることがあります。
ふしだらなことをしない
これはあまりしませんがエロ動画や画像などは
鑑賞します。こういってことでも
ふしだらなことになるのでしょうか?
心から懺悔をし善行を積み
南無阿弥陀仏など毎日唱え修行をすれば
罪罰から遠ざかるとありますが本当ですか?
そもそも地獄は実在するのですか?
昔された嫌なことを根に持つ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
戒律を守れないからこその念仏
仏教徒の最終目標は全ての苦しみ迷いから解き放たれた覚り(悟り)に至ることですが、そこに至る為の心身と環境を整えるために戒律を守る必要があるのです。
しかし、現世において戒律を守ることは、私達凡夫にとっては大変難しいことですね。
そこで私のような浄土信仰の宗派の人は極楽浄土へ行くことを願うのです。
極楽浄土とは阿弥陀仏が造った国であり、覚りに至る為の修行の場所なのです。
戒律を守りやすい場所であり、阿弥陀仏の元で先祖と共に修行できる場所なのです。
そして、その極楽浄土へ行く方法が、例えば浄土宗であれば、阿弥陀仏の名を唱えること、つまり南無阿弥陀仏と唱えることなのです。
つまり、戒律を守れないからこそ、阿弥陀仏を信じ、極楽浄土を願い、南無阿弥陀仏と唱えるのです。
また、悪いことをしても、心から懺悔して念仏を唱えると、その罪は溶けて無くなります。
ただ、仏教的には無くなりますが、民法や刑法上での罪はやはり相応の罰を受けなくてはなりません。
また、地獄が実在するのかどうか、その解釈は様々です。私としては、人でも動物でも他の生き物でも、生きている限り地獄のような苦しい時というのはあるのだろうと思います。
しかし、お釈迦様のように覚りに至ればそこから脱することができるといわれています。なので、覚りに至る為にも先ずは極楽浄土へ行くことを願い、日々念仏を唱えるのであります。
南無阿弥陀仏
お念仏は免罪符ではない
死後に地獄行きならまだよいかもしれません。今、地獄にいないかどうかです。
お念仏は免罪符でしょうか?罪を消し去るものでしょうか?
観無量寿経というお経には
「仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。」
とありますが、これは何を意味するのか?念仏が免罪符として罪を消すものであって「八十億劫」の罪を消したとしても、すぐに「八十億劫+1」の罪を作るのが私たちです。
つまり、ここが意味するのはたとえいくつ罪を作ろうが往生浄土の障りとはならないということです。罪が消えて浄土に行くのではありません。浄土に行くのに罪は問題とならないという事です。
親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。往生浄土は自然なことなのです。
では、死後の浄土行きが確定したとして、今のあなたは救われますか?目の前の苦しみはなくなりますか?目の前の罪を恐れなくなりますか?
そうではないでしょう。
それは死後に理想世界の極楽浄土に行くのだから今の苦しみなどなんともない、というような「今と死後との比較論」になります。
「世界には貧困や飢えで苦しんでいる人もいるんだからそれに比べたら私はマシ」論です。
そうではありませんね。往生浄土がたとえ死後だとしても、今、浄土のはたらきを受け、救われなければならないのです。
一般の仏教が、戒律を守り心身を清くして禅定を行い仏の智慧という山の頂上へ私が昇りつめていく仏道ならば、浄土真宗は山の頂上から仏が私のところまで下りてきてくださる仏道です。
戒からはじまる私の仏道ではなく、智慧からはじまる仏の仏道なのです。智慧のはたらきである阿弥陀の慈悲にふれるからこそ、感謝の気持ちと懺悔の気持ちがおこるものです。
地獄を作っていたのは私でした、極楽浄土に行く条件を作って自ら苦しんでいたのは私でしたと、「私」が「今」あきらかにならなければなりません。
「今」「私」があきらかになるならば、こんな私を必ず救うと誓う弥陀に頭が下がります。罪に怯える私ではなく、罪に懺悔する私の誕生です。
「くすりあればとて毒をこのむべからず」です。
滅罪は往生浄土の条件ではありませんが、罪はこのむべきものではなく、懺悔するものでしょう。
もともと「地獄こそ私のすみか」と言わざるを得ないような私たちです。阿弥陀の救いには感謝のお念仏を申すほかありません。
大切なのは諦めないことです。
花月園様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
無始以来、無知無明、煩悩による悪い行いによって、迷い苦しみの世界に幾度ともなく輪廻する中において、今世に至っており、その間、一体、何度、数えきれないぐらいに地獄にも落ちてきてしまっていたことでしょう・・
今さら地獄(のような苦を受ける心境涯)に陥ることを、さほど気にすることでもありませんが、しかし、だからといって、どうせ地獄行きだろうしと、諦めてしまっては、また同じ繰り返しになってしまいます。
何とか仏様とのご縁、菩提心をしっかりと大事に大切に育み、とにかく今世においても、できる限りに行いをより善くに努めていくことが大切となります。
拙生も毎日のお勤めにて、三宝帰依や菩提心生起、懺悔、各戒保持誓願を繰り返し行いつつ、日々の行いを反省し、一進一退の中ですが、ほんの数ミリでも悟りへと近づけるようにと思っております。
諦めずに取り組んでいければ、きっと何生か後には、やがてその菩提心が花開き、悟りの実を結ぶことへと繋がっていくことになると存じております。
共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
戒律は野球憲章とルールブックのようなもの
戒律は極楽とも地獄とも直結しているわけではありません。
戒律は仏弟子となって仏の教えを自分の生活の中で実践していくためのいましめとルールです。
プロ野球でたとえるなら、戒律は野球憲章とルールブックのようなものです。
プロ野球選手がプロ野球選手として認められるには野球憲章とルールブックにしたがうのは当たり前です。
しかし、それだけでは優勝チームの一員になれるか、はたまた戦力外通告で引退かは決まりません。実際にプレーして自分の成績を積み上げて行かなければなりません。
仏弟子も同じことです。どれだけ仏の教えを実践できるかによって、次の生が決まるのです。
逆に、野球と違うのは仏弟子には敗者復活戦が無限に認められているところです(出家した僧侶の場合は少し事情が異なりますが)。
「すみません。間違いを犯しました。もう一度チャンスを下さい」と懺悔すれば、仏は「いいでしょう。やってみなさい」と励まして下さいます。
お釈迦さまを暗殺しようとしたダイバダッタですら、死の直前に「南無」と唱えた懺悔の功徳で、遠い転生の先にお釈迦さまと同じ仏陀になると説かれています。
地獄というのは、仏の教えに出会わず、その実践に手を付けることもなく、あるいは背を向けて、迷いと苦しみの中に留まり続ける人の辛さを劇画チックに表現したものです。そこから抜け出すための指針が戒律だと言って良いのではないでしょうか。
質問者からのお礼
聖章 様 戒律を守れないからこその念仏なんですね?
仏教上の罪が消えればそれだけで十分です。
刑法上などは現世でのルールだから
現世にいる限りは従わなくてはいけませんよね。
極楽浄土目指して南無阿弥陀仏を唱える習慣をつけようと思います。
吉武文法 様 罪を消しても人はまた罪を犯してしまう
愚かな生き物ですね
たとえ死後極楽浄土でも今とて良くないと決して納得できないのは
確かにおっしゃる通りです。
死後だけでなく現世の極楽浄土もあきらめずに探そうと思います。
川口 英俊 様 幾度の輪廻のなかで今の現世に至っているんですね?
確かに前世では悪いことしたから現世で私が不遇な環境に生まれ落ちたのかもしれません。
変なたとえですがまんがにっぽん昔ばなしでも和尚さんが
似たようなセリフを言ってました
極楽浄土目指して永遠の輪廻の苦から脱出できればと思います。
百目鬼洋一様過ちを犯しても再度チャンスをくれるとは
仏とは寛大なお方なんですね?
情け容赦ない日本の企業とは器が違います。
仏の教えをありがたく実践し極楽浄土を目指そうと思います。
各僧侶の方が回答ありがとうございました。