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私は修行できるのでしょうか。宗派を決めるのが難しいです。

こんにちは。 初めて質問します。
私は、いろんなことがよく頭の中で渦巻いて、ごちゃごちゃしています。
”空”にすることはとても難しいです。

6、7年前に自律神経系を著しく崩して、死がそこまで来るほどに患いました。 いろんな人たちの援助やさまざまな治療方法で、細かい不調はありながらも何とか今、生活できています。

生きていることの毎日が修行のようですが、頭(心や魂でしょうか)の部分で、改善はしていますがどうしても”何か”を越えられません。

現在、私にはもう仏教修行の道しかないのか、或いはその道が最適、ぐらいの考えにあります。

インターネットでいろいろ調べましたが、そのうちに宗派や修行内容など、考えると訳がわからなくなってきました。
(修行体験として出てくるのは限られている気もします。)

身体面で、厳しい修行(横になってはいけない、断食、極寒でひたすら立ち尽くす、1000日歩き続ける、など...)に耐えられるのかどうか不安です。また、死ぬような思いをするのかな、と。
わたしにとっては、その部分の修行は1度やった、ぐらいの感覚であるほど苦しかったんです。(修行を軽く捉えてるわけではありません)

無理ならば、健康でなければ出家はできないということになってしまうのでしょうか。

このような状況や、修行の内容と宗旨のバランスを、自分に当てはめてみたとき、何を選べばいいかわからないです。

このような私に、ご教授よろしくお願いします。

長文、お読みくださり、ありがとうございました。

有り難し 73
回答 5

質問投稿日: 2015年6月14日 14:24

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

修行はゴール地点であり、最高の精神状態のこと。

以下、修行の心得違い、修行者の悪い例です。 
◎お遍路さんに3か月。帰ってきて夫婦ゲンカ。
何の為の修行だったのか。
じっと手をみる。(-_-;)

◎坐禅10年、いまだに自分の感情に振り回されっぱなし。
何の為の坐禅だったのか。
じっと手をみる。(-_-;)

念仏3万回。
相変わらず、家族とは不仲です。
何の為の念仏なのか。
じっと手をみる。(-_-;)

こういう方は、僧俗問わず、ワンサカおられます。
お遍路さん、坐禅も、念仏も瞑想も、年数、回数ではありません。 

その行の中で「心」がどうなっているかをみていることです。
思考や分別から離れていない仏道修行はどんなにはたから見てそれっぽくても単なるコスプレです。
念仏、坐禅、お遍路さんを通して「無私なるこころ」を日常生活であらわせなかったならば、救いはありません。
考えごとの上であれこれ求めているうちは、仏道修行をやっても救いにならないのです。
それは、我の延長でしかないために、仏道修行の道場、本山にいくら修行しているつもりでも、❝修行をしている事にすらならない❞のです。なぜなら、修行をしながら、考え事、自分をやっているだけだからです、

思考をはなれているかどうか。
なにをするのであっても修行になるというのならば、そこの質が大切なのです、
厳しい事なんて関係ありません。仏道よりボクサーや自衛隊員の方がよっぽど厳しいです。

一回唱えて足らんでなし、千回唱えて足るで無し。
念仏も坐禅もお遍路さんも滝修行も、それをすることで修行が終わり、ではないのです。
その行を終えて後の日常生活が大切なのです。

その行の中だけ、仏道らしいことをして自己満足しても、それが終わった後に日常の我利我利、苦夜苦夜、意羅意羅では上記のように何の力にもなっていない。
それは多くの修行者や僧侶が修行の方向性を、勘違いしているからなのです。
本当に生老病死から救われる修行になっているか。修行の質が問われるのです。
歩く瞑想、食べる瞑想、坐る瞑想を通しておのれを滅し「瞑想ぜられた心」で生活すれば、何処にあっても修行をしていることに変わりはありません。

3年1ヶ月前

最初から宗派なんか決める必要があるのでしょうか? それから出家は修行するための条件ではないですよね。だから、「適当にいろいろな道場に行ってみて自分に合う修行を探したらどうですか?」と言いたいところです。ただ現在では、修行体験の場を提供しているところが少ないので、それが言えず残念です、、、。
ところで、我田引水に聞こえたらまことに恐縮ですが、私らの道場は修行体験を提供しています。ので、ご縁があれば一度体験してみたらどうかな、とは思います。検索すれば出てくるかも知れません。
修行は自分で選ぶものというよりは、ご縁によって頂くものではないかと思います。僕もあなたみたいな感じだったから、心から応援していますよ、ホントに。良き修行のご縁に出会えるようにお祈りしています。

3年2ヶ月前

生きることも修行です。

lotus-universe さん、はじめまして。

修行の厳しさで出家を迷っておられるようですが、出家は必要ないと思いますよ。

しかも、あなたは既に修行をしていますよね。
生きることの困難、これもまた修行です。

越えられないものなんて何かはっきりしないのが当たり前です。
はっきりしていたら越えるために何かをしているでしょう。

それが何かを知りたいなら、まず心を落ち着けることが肝心です。

静かな時間に瞑想をしてみるとか
静かに写経をしてみるとか
ひたすら読経してみるとか

色んな方法があります。

瞑想はどこでも出来ますし、写経用紙は文房具屋さんにセットで売られています。
読経はお経の本があれば出来ますから仏具屋さんか近くのお寺さんで求めれば良いでしょう。
最近はCDやカセットテープもあります。

まずはご自分で何かに打ち込んでみるか、お近くのお寺さんに相談されるのが良いと思います。

出家したから修行をしなくてはならないのではなく
仏道の修行を志すから出家するのです。

順番が逆でしたね。

3年2ヶ月前
回答僧

願誉浄史

出家しなくても修行はできます

出家しなくても修行はできます。
お坊さんの役割は、教えを次の世代に伝えたり、より多くの人に広めること、お寺の維持管理などがあります。
しかし、自分自身の修行に関しては、出家しなくてもできるのです。
健康に不安があるなら、出家するのは厳しいかもしれません。
しかし、出家しなくても、教えを学び、仏を信じ、修行することは可能です。
仏教の基本的な修行については、たとえば、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに瞑想の説明もあります。
瞑想などの仏教の基本的な修行が難しいと思う方には、浄土宗や浄土真宗のような易しい救いの教えもあります。
また、あなたの先祖がお世話になっている身近なお寺の行事にに足を運んでご住職のお話を聞いてみるのもよいでしょう。

3年2ヶ月前

「菩提心」

lotus-universe様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏説は八万四千の法門と言われますように、多くの教えがございます。どうしてそんなに多くの教えが説かれたのかと申しますと、釈尊は、相手の機根(悟りへと向かうための能力・資質)に応じて、巧みに悟りへと導くために説かれた(善巧方便)からでございます。

簡単には、一人一人それぞれに対して説かれた、または八万四千の煩悩の一つ一つの対処法を説かれたと考えることもできるでしょう。

まあ、それらの教えのある程度の公約数が、各宗派的なものとしてまとまっていると考えることもできますが、ではいったいどの教えが自分に合うのかと申しますと、やはり、ある程度それぞれあたりを付けていく必要があるのではないかと存じます。

かといって、全ての仏典や論書等を読むには膨大な時間と労力がかかってしまいますから、とにかく仏教思想の全体を概観できるような入門書、参考書からまずは学ばれていかれると良いのではないだろうかと存じます。

そして、やがて本格的に学び修していきたいものに出逢えましたら、その師を求められて、そして指導を仰ぐようになさられると良いのではないかと存じます。

在家のままでも授戒を受けるなどして正式な弟子となって、仏道を歩むこともできるかと存じます。僧侶になるのであれば、ある程度専門的なところでの修行は必要となりますが、そうでなければ、在家のままでも修行はできないことはありませんので、その点はどうかご安心下さいませ。

とにかく、在家であろうが出家であろうが、仏道を歩む上で大切となるのが「菩提心」(全てのものたちを救うための悟りを求めたいとする心)でございます。まずは、しっかりと「菩提心」を起こして、三宝に帰依して、そして、「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳の実践)」の二資糧を積んでいくことが必要となって参ります。

また、無理に修行の形式(坐禅、瞑想、水行、護摩行、念仏行、三昧行・・)にこだわる必要もありません。日常の行住坐臥の中でも、心身共に無理のない範囲でバランス良く(中道)に進めることが大切となります。

是非、共にこれからも頑張って仏道の歩みに励んで参りましょう。

川口英俊 合掌

3年1ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

貴重なお時間を頂き、回答してくださり、ありがとうございました。
それぞれの回答を、やはり修行のような気持ちになりながら読みました。
修行はどこででも出来る、というのはよくわかっているつもりです。
日常の中での修行が出来ないなら、出家など出来るはずもないのかもしれません。
でも、日々の生活の中での修行は、ある意味とても難しいと感じています。
僧侶の方々に失礼にあたるつもりはないのですが、これならば、その修行を、
最適だろうと(私が)思う環境においてやってみるのはどうか、という動機です。
自分を成長させよう、という心から生じているもので、不純なものではありません。

テーラワーダ協会のHPにある、“歩く瞑想”というのを知って、やってみました。
こうしてやって行って、お寺にも足を運びたいと思います。
ありがとうございました。

丹下 覚元さん、ご回答ありがとうございました。
仰ること、よくわかります。 私が、修行に対してツラツラと文句を言っていましたね、失礼致しました。

願誉浄史さん、遠藤喨及さん、小原観慈さん、お名前を記していませんでした。
ありがとうございました。

川口 英俊さん、在家でもそのように、道はあるのですね。 
入門書を読んでみます。 具体的な方法を教えてくださり、ありがとうございました。

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