私は過去の出来事で
あのとき
すごく苦しかった
ひとりぼっちだった
こと思い出すと
どんなに素晴らしい教え、
お釈迦様の教えやいろんな聖書や
仏教を学んでも、
あなたは神や仏に見守られ、
愛されています。
委ねていきましょう。
とか言われても
なんも心に響いてきません。
私はあの時ひとりぼっちだったから
私はさいごは一人ぼっち感が
すごく強いです。
最近とかではなくて、
歪んだ気持ちをずっと持っています。
こんな私はどうしたら
救われるのでしょうか。
霊的経験とかないし、
神社?(寺?)によく行ってましたが、
ご住職さんたちの裏の顔みたいなのを見てしまい
(キャバクラとか…。)
私が歪んでいるから物事そう見えるのでしょうか。
真の救いは仏教にはないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
初めまして、浄土真宗の藤波と申します。
人間、斜(しゃ)に構えて眺めていると、ゆきのさんが仰る、「裏の顔」が見えて来るものです。貴女の思い、よくよく理解できます。私とて、そうですから。多分、ゆきのさんに限らず、世の中の人々の大半が貴女が言うところの、歪んだ気持ちを持ち合わせているものです。
私もまた、自身が属する浄土真宗という宗派に対して、そこに属しながら(❗)、時として自ら属する宗門に対する嫌悪感を色んな場面で募らせます。それは言わずもがな、宗教団体は所詮は人間の集合体でしかないのです。
しかしです。
しかし私は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人という人が好きなのです。何故ならば親鸞聖人は、自身を美化するようなことはしなかった。とことん、自身が持つ心の闇と対峙する人でした。その人間臭さが共感を呼び、私にとって救いともなりました。
親鸞聖人は晩年に、こんな和讃を書き残しておられます。
浄土真宗に帰すれども
真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
『正像末浄土和讃』愚禿悲嘆述懐讃より
【意訳】
浄土真実の教えに帰依しても、
真実の心など持ち合わせていない。
全く外面は真実らしく見せて
内心は嘘偽りの身である。
清らかな心など更に持ち合わせていない
我が身である………。(拙訳)
親鸞聖人は90歳で生涯を閉じられますが、亡くなる数年前にこんな《詩》を詠んでおられます。私はその赤裸々な姿に、深く共感を抱いています。またそこに、救いを感じています。
ゆきのさんには、陳腐な救いの言葉は通用しないと思っております。何故ならば、私が貴女の立場なら同じ思いになるのをよく解るからです。
そんな私だからこそ、今から800年ほど前、紆余曲折の中に生きたであろう、親鸞という僧侶の生きざまに共感するのです。
多分、こんな回答は、回答にもならないかも知れませんが、人間なんて、その性根は歪んだものです。仏さまに愛され見守られているのも確かなことですが、それよりも仏さまは、ヒン曲がった根性をお見通しだということですよ。
だからこそ、実在した仏教者の生きざまを追慕して見ませんか。共感は救いへと転じて行くと思いますよ………(^^)。
他人に何かを求めても、他人からどんなアドバイスを受けても、あなたは満足できないでしょう。
なぜなら、あなたが過去の辛い経験を忘れられないから。
どんな言葉も、過去に起きた事実を変えることができないからです。
その、どうにも出来ない過去の事実に執着している限り、誰もあなたを救えません。
では、どうしたらあなたの心が安まるのでしょう。
もう、あなた自身が過去の傷をペロペロなめるのを辞めるしかないです。
傷口を押さえながら、辛い、辛いと泣いている自分をかなぐり捨ててしまいなさい。
過去は過去と、割り切ってしまいなさい。
それができないのなら、一生ぐずぐずと愚痴を垂れ流しながら生きるしかないです。
古代仏教の経典にこんな言葉があります
貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
人は結局、死ぬときは独り。
孤独を嘆いてもしかたがないよ。
前を見て、しっかり自分の足で歩いていこう。
林さま。
ありがとうございます。
そうですよね。
人は結局最後は1人ですよね。。
なんで生きてるのだろう。
悲しいなぁ。
藤波さま
ありがとうございます。
親鸞聖人は存じております。
凄すぎて、理解が追いつかないです。
また親鸞聖人の本を読んで見ます