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自分でありたい。

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以前、自分が男なのか女なのかと質問をしました。

男とか女とか、関係なく、自分らしくあればいい。
そう言い聞かせ、それからも生きてきました。

でも、社会に出れば男女で別けられることが多く、その度に悲しくなります。

公的な書類も、ちょっとしたアンケートも性別を書かなければなりません。
避けて通れるものなら、避けて通ります。
しかし、避けたくても避けれないものでこの世は溢れています。

自分は自分。
そう思っていても、世間はそう思わせてくれない。

女じゃないんです。男でもないんです。

性的な様々な病気もありますが、
知っている限りでは自分に当てはまるものもありません。

何かいい方向に考えられるようにアドバイスをお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

同じようなことで悩んでいる人がたくさんいるはずです

たまさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

たまさんは「女じゃないんです。男でもないんです。」と感じておられることから、ご自身の性に対する捉え方に悩んでおられるように思います。もしかするとLGBT(性的少数者)にあたるのかも知れません。

はっきりしたことは言えないのですが、たまさんと同じようなことで悩んでおられる方は少なくないようです。ちなみにLGBTの方は人口の5%ぐらい、日本では200万人以上おられるようです。
性別に関してつらい思いをし、それが原因で深い悩みの闇に落ちてしまうことがあるようです。

虹色ダイバーシティなど基礎知識を含め、同じ悩みを抱える方が話し合える場があります。少しご覧になって、たまさんと感覚が近いと感じるならば悩みを相談してみてはどうでしょうか。

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

何より自分で自分を認めましょう。

お答えになるかどうかわかりませんが、考え方でどうにかするものでもないように感じます。
例えば、肌の色が他人より黒い。ことで周りから、どうのこうの言われたとします。しかし、どう考えようが事実は変わらないわけです。

人にどのように分けられようがそれは所詮他人。男女で分けられるから嫌なのではなく、自分で今の自分を認められないことが、悩みなのではないでしょうか。
自分を好きにならなくても嫌いにならないでほしいです。一度専門のお医者様にかかるとか、今の自分を受け入れることを考えてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

利用してしまえ

たまさん、はじめまして。

以前からのQ&A拝見させていただきました。

確かに、男女のどちらかを取ろうとするなら、世間的にはいろいろな場面で不自由を感じると思います。

私も何人か性同一性障害の方を知っていますが、どちらかにしかなれないからこそ、相当の不自由を強いられているようです。

どちらかを選んでしまった彼・彼女等は、書類の性別欄も、まさしく逆にしか丸をつけられません。
特に、男性性の女性よりも女性性の男性の方が、同性の中にも受け入れられず、困難を強いられているようです。

聞けばたまさんは、男女どちらも感じておられるご様子。

こんな言い方をしては失礼かもしれませんが、女であることを苦とするのでなく、男であることを矛盾ととらえるのではなく、せっかく両方の立場に立てる自分に価値を見いだしてみてはどうでしょう?

男である私は、女性の気持ちを想像することしか出来ません。
世の男性もおそらくそうでしょう。
女性もまたしかりです。

でも、たまさんはそうではありません。
女性として生まれ、女性として扱われてきた。
だからこそ、男性よりも女性の中でしか感じ得ない女性のことが解るはずです。
しかし、女性ではないとして男性としての意識も持っておられる

ということは、たまさんは、どちらかにはなれなくても、
どちらにもなれるということではありませんか?

私は、どちらかを否定することよりも、どちらも認める方が、よりたまさんにとって素直なのではないかという気がします。

それが例え完全にではないにしても、両方の気持ちが理解できるならば、
それは、たまさんだけが持っている特別な能力なんです。

男性としては認められなくても男性のような生き方は出来るはずですし、
その上で、女性として利用できるところは、世間的にはなに不自由なく利用できるはずです。

「乗り越える」とか「納得する」という言葉で考えてしまうと余計に苦しくなってしまいます。

ここは世の中を逆手にとって「利用する」くらいの気持ちで、せっかく持っている両方のあなたを素直に使ってみませんか?

きっと、女性にとっても男性にとってもよき相談者になれるはずですよ。

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わたしも それも ただ そういうもの なり

禅宗では不邪淫戒という戒があります。
一般的にはみだらな行為、ワイセツ的な事にふけるなという意味ですが、
実は、この戒は深い所では単に性的なことをしないとかいうことではありません。
自分が自分の性別を忘れて生きている時こそ、不邪淫戒を全うしているのです。
男女の隔てを起こすな、ということなのです。
勿論身体的には、男女の際はあります。
ですが、仏法においては、男だから女だから、という隔てや見を持つことが分別を中心とした生き方になるので、そういう生き方はキリストでいう所の楽園から追放される知恵の実をかじっちゃった状態であるということです。
私は、回答者さんの顔も姿も見えませんし、回答者さんの中には、偽名、虚偽の方もおられます。さほど、こちらは男女は構わず回答しています。
さて、たまさんは、自分が今、何歳であるかを忘れていたはずです。
何県の出身かも忘れていたはずです。
ものを見ながらも目を忘れていたはずです。耳も忘れているはずです。そして、性別も忘れていたはずです。
思いや私見を「立てない」でいる時は、良し悪しも無ければ、幸不幸も無ければ、年齢、性別すらも滅しているのです。
そういう様子を、考えに縛られていない状態といったり、無心と言ったりします。
無心と言うと禅臭いですから、難しいものと思われてしまうかもしれませんが、単に自分がモノやジャンルを隔てる心が働いていない時の状態です。
にんげんは、そのときに、ただ、そういうものなのです。
あまり自分は「こうだ」ということ無しに、自分はこうだ、という様子のまま生活してみてください。自分が何者かすら忘れてしまうくらいでちょうどいいのです。
自分が忘じられれば、外の世界の隔て事も、ただ、そういうもの、となって別にあなたを苦しめるものではなくなります。
そういうことです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

中村太釈様、邦元様、丹下覚元様、小原観慈様、ご回答ありがとうございました。

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