信じる
「人を信じる」事は生きていく中で必要だとは思います。だけど、いろいろな経験を重ねるうちに気がつけば、自分さえも信じられなくなっていました。
情けないことです。
「信じる心」の取り戻し方が分からないんです。
どうしたら良いのでしょうか?わたし。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
絶対の仏さまを信じる。
迷える子羊さんへ、こんちには。
何かのことで、誰も信じられなくなり、また自分さえも信じられなくなっているのですね。
人を信じることは時と場合によります。人は良い人もいれば悪い人もいる。特に騙そうと寄ってくる人は、素晴らしいことを言いますので疑う人でも信じさせてしまいます。
だから人を信じるとは非常に難しいです。
信じるのは仏さまと仏さまの教えです。仏さまは絶対に慈悲を注いでくれています。たとえ不幸なことがあっても信じられるかどうかが、信心の大切さです。そして苦しくとも仏さまの教えを実践することが大切です。そして自分を導いてくれる仏さまの教えを実践している人を選んだら、まずは3年その人の指導を信じて実践することが大切です。
信じるところは人ではなくて、仏さまを信じる心なのです。その仏さまを信じるこころをどう作るか。それは地道な毎日の読経を通しての仏さまの教えの学習と実践でしかありません。迷える子羊さんであれば、まずは元気な挨拶だと思います。好きな人でも嫌いな人でも誰でも挨拶ができること。これが人を通して仏さまを信じることへの実践です。
一緒にがんばりましょう!合掌
人と言うが並ぶと「信」ですよね。
遙か昔、お坊さんの資格をいただくための授業で聞いた言葉です。幸か不幸か、これだけは明確に覚えているのです(ごめんなさい)。
言った(言われた)言葉とその人がくっつく。それが「信」という状態なのです。「あの人は信じられる」というのは「あの人は、自身が言ったことを、実行してくれるだろう」という意味なのですね。
そういう意味からも、仏様というのは信じられます。「悟りを開こう」をいう誓いをされ、そうなったのですから。
翻って私たちの住む娑婆世界は、「言ったようになる」かはグレーです。ときどき、そういう事もある。出来ないこともある。その中でせめて「あの人は言ったようにすることが多い」というのを指して、「あの人は信じられる」というのです。
ですから、私も含めて娑婆の人は「できることもある・できないこともある」のが実態です。あなたがどんな体験から「信じられない」と学んだのかは知りませんが、100%を言うならば、そりゃ無理なこと。「明日の朝起きたら、私は歯を磨くよ!」と宣言したってできないこともあるのですから。それを指して「私は自分を信じられない」というのも、まあ構いませんよ。けれどね。
せめて、「なるたけ、できることはやろう」、その指向を持っていることで勘弁してあげませんかね。電源のオンオフのように「信じられる・信じられない」を色分けしたら、殆どの(全員の)人は「信じられない」ですよ。何となれば、「この世界は、苦しいことが多いよ(言ったようにならないことが多いよ)」というのが仏教の基本ですから。その前提のもとで、せめて。
長くなってしまいましたが「信じる心を取り戻したい」のであれば、
1)100%を求めない。
2)言行一致(信)を見たら喜ぶ。お礼をいう。心理学で言う強化子を振りまく。
あたりでしょうか(強化子、についてはご自分でお調べ下さい。すぐ出てきます)。