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怒らない方法

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人にいらいらしないようにするにはどうしたら良いですか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

コントロールしよう

具体的にお書きではないので、大雑把な言い方になってすみませんが。
他人に軽い怒りを感じるのですね。先ずゴールとしては、以前の「自分の価値観を相手に押し付けない(自分を物差しを〜)ですが、具体的な方法としては、「アンガーマネジメント」を学ぶことをお勧めします。怒りという感情の発生する仕組みと、その過程でどのように振る舞うと良いのか、分かると思います。病気でも対処療法と原因治療がありますよね。その後者です。特に看護師さんは感情労働の側面がありますから、理屈をきちっと学ぶのは有効だと思います。

「お礼」、ありがとうございます。取り敢えず、電車の中で化粧している!程度なら、「別の方向を見る」=視界から外す、でもいいのです。パッと起きた事にずっと引っかからない。もっと興味深い事が同時に起きているはずですから、そっちを見ましょう。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

自分が脳内でやっている本当のことを見極める

ああ、自分なんて駄目だ。
ああ、また迷惑をかけてしまった。
ああ、生きていても仕方ない。
私にもそんな事を考えていた時期がありました。
ところがこれって、ある時に思ったのですが、こうやって自分を悪く言う、ケチをつける、ダメ出しをすることの本質は何かって、もう言わなくてもお分かりでしょうが、たんなる 自分いじめなのです。
反省しているようで、反省しないで自分をいじめているだけ。
本当の反省とは今後、同じことをやらない様に自分を厳しく戒めて、今後二度と繰り返さないようにつとめることであって、自分をいじめることでは無いのではないでしょうか。
あなたの中で生きる気力を失っている時とは、必ずと言っていいほど自分いじめです。
自分を悪くいって自分が良くなることはありません。
嘘でもいいから、自分で自分の可能性を見つけて、そこを引き出すだけでも人生が変わるのです。
つまり、それは嘘ではなくて「頭の中で何を考えたか」によって、人生が変わるという事なのです。
脳内スロットで💀💀💀と出たとしても、✨✨✨、777、🍎🍎🍎が🍒🍒🍒が出れば、そこからガラッと人生が変わるのです。
過去に💀💀💀がでたとしても、それはもうい過去のこと。
今日は今の現実が目の前にあります。
ヨイワルイを捨てて、自分の思い込みも捨てて、脳内スロットもまっさらにして、今から人生を新たに生きてみましょう。
たった一呼吸であっても、人生で初めての呼吸なのです。
今日のこの回答も人生で最後の真新しい回答です。
何度読む本であっても、今日ははじめて読むのです。
いつも食べているあの食材にしても、食材そのものは部位が違います。
お米一粒にしても同じものはありません。
人間は想念を最優先にしているから物事に接する時に狂ってしまうのです。私なんかどうせ駄目だと思っていた時のあなたはもういません。
もう暗い沼に還るのはやめましょう。
一種の生活習慣病なのです。
自分が脳内でやっていることの実質はなんなのか。
よく見極めてください。
自分はダメだとかおもう評価よりも、単に自分のことを悪く言う事で誰かに助けを求めているだけであったりします。それは変わりたいという気持ちです。
変わりましょう。
もう一度読み返して頂いて、もう同じところには帰らないことです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
自分の価値観を人に押し付けないのは簡単なようで難しいですが、やってみたいと思います。
本当にありがとうございました。

ご回答ありがとうございます。
遅くなってしまいすみません。
ネガティブになった時に少しずつでも
立て直そうとする心を持てる人になりたいです。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ