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旦那の『疲れた』という口癖

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旦那の『疲れた』という口癖にイライラしてしまいます。

仕事の残業も多く、たくさん業務を掛け持っているので、大変なのは重々分かっています。

しかし、休みや夜勤の前日はほぼ必ず仲間同士で呑みに行く(そして午前様)、
または、朝までダラダラと趣味をして起きている。

基本的に休日は趣味で一人で外へ、朝から晩まで遊びにいっている。

家事や、育児の手伝いは殆んどしない。携帯やテレビを見ていて、子供の相手もしてくれない。(たまに気が向いたときに、月に数回お風呂にいれてくれる程度)

上記のような状態でも、初めは心を込めて大変だね等、心から労っていたのですが、
どんどん『疲れた』『眠い』等、1日に5回も6回も愚痴られると、
『じゃあ、夜更かししないで寝なよ』
『じゃあ、飲み会とか減らして、家でゆっくりしたら?』
『じゃあ、家でゆっくりしてたら?』
『私も疲れてます』と、
どんどんイライラしてきてしまいます。

もちろん旦那には態度には出さないで、表面上はニコニコ労っているのですが、心の中ではイライラが濁流のように流れています。

普段の旦那の言葉にはイライラしなのですが、
『疲れた』という言葉が私のなかでのイライラのスイッチのようなのです。

どのような心構えを持てば、旦那の『疲れた』という言葉にイライラせずに穏やかに、心から労る心を持てるのでしょうか?

これ以上旦那の『疲れた』を聞いていると説教や、殴ってしまいそうです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言ってるだけ。スルー、スルー。

おつかれさまでした。
いつもムカつきますよね。(笑)
少しは家事や子育て手伝えっちゅうねん(# ゚Д゚)
私が代わりに仏パンチをかましておきましょう。
ブツぞー( ゚Д゚)👊( ゜Д。)どうぞ―
まずは、言ってるだけです。
マイホームですから、そんな言葉もこぼしたいのです。あなたが甘えられる相手だからでしょう。
さて、あなたが、アーつかれた、という時は何を求めますか?
あなたも言ってみましょう。
「アーつかれた」
その時に、感じることを埋めてあげてください。一言やさしいことばを添えて、過剰に反応しないことです。
何か言わなきゃいけないかしら、という自分の思い込みを捨てることです。
反応するなら「疲れてんのはアンタだけじゃないのよ( ゚Д゚)」とかネガティブ反応ではなく、
嘘でも「(^-^)いつも、お疲れさま。ゆっくり休んで来たら?」とか、一度完全に解放してあげることです。
男性はワイフの顔色や態度を敏感に察知していますから、あなたが心理バリアを張っていれば2秒でばれます。自分がグッタリするのに正統性を持たせるために疲れたー、とかいっているのでしょう。
あえて切り返す言葉を、夜のお仕事のプロフェッショナルのように愛のある言葉でかまってみましょう。会話を引き出すきっかけにしてみてください。
世の男性の一部は、妻のそっけなさから、お金を払ってまで自分を受け止めてくれる人を求めにいくものです。
相手に反省を促したいのであれば、あなたはあなたで子供を使った上手な休暇タイムを取ることです。
イライラする旦那と無理に一緒にいる必要はありません。
家にいなくちゃ症候群にならない様に、大いに外で羽を伸ばしてください。
反応するから苦しいのです。ああ、つかれたんだねぇ。とそこで終わりにして、あたしはこんなにやっているのに、という二の句を継ぎ足さないでいてください。
それはそれとして、そこで終わりにするのです。
あなたはあなたとして、言いたいことがあれば、個別に言えばいいのです。
言葉は、吐いた相手のモノ。逝かせてやることです。打ち返す必要はありません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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