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物欲、金遣いの荒さ、周りからの目が悩みです

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結婚1年目にして可愛い我が子に恵まれ、とても幸せなのですが、周りからの目や、直らない物欲に悩んでいます。

20代半ばにして結婚、出産、都内でのマイホーム購入と、同年代の友人達そして結婚している家庭から見てもとてもスムーズに人生が進んでいると自分でも思っており、主人に感謝の気持ちでいっぱいなのですが、友人達に羨ましがられたいという気持ちがとても大きく、SNSなどで比べてしまうことも多々あります。

マイホーム購入後、もともと人を家に呼ぶのが好きなのもあり、よく見せたいのかインテリア用品を購入したり、我が子の洋服やおもちゃなども、色々と購入したりして、既に30万ほどは使ってしまってるのでは?と思います。

しかし、現在育休中ですが残念ながら手当ては0。
主人の稼ぎと、貯金を切り崩しての生活です。
なので自由に使えるお金は本来ありません。
そう頭では分かっているのに、どうしても物欲が抑えきれず、貯金から出してしまう…。
子供は3歳まで自分で面倒をみたいと思っているのに、このままでは貯金もなくなるし、生活も厳しくなる、と不安です。

在宅での仕事も探してはいるのですが、
まだ子供も3ヶ月になったばかりなので果たして仕事ができるのかどうか…焦ります。

と不安や焦りがあるものの、産後の骨盤矯正に通ったり、洋服を買ったり、と自分に費やすことが辞めれません。

一軒家で周囲よりは裕福な家庭で育ったこと、性格のよく似る父が私と同じく浪費癖(車購入が頻繁だったり)があることから、なかなか物欲、浪費癖が直りません。

父の浪費癖を見ていて飽きれているのにも関わらず、者は違えど自分も変わらないと自覚しています。本当どうにかしたい。

お金がある(貯金)と使ってしまうこの癖、どうしたら良いですか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

欲しい と 必要 を 混同しない

あなたが金持ちの家に行きました。
高級グッズがありました。✨
目に留まるのは数十秒。
「すんごぉぉぉぅ~い。すってきぃぃぃ~ん♡(*´▽`*)」
ああ、スゴイな、とか思うのもざっくり数十秒です。
あなたが他人の洋服だとか、家のグッズをみているのだってせいぜい数十秒。
そんなもんです。
相手の心にたったの数十秒だけ見せつけて、帰ったらその人にとってはどうでもいいこと。
なんてコスパの悪いことか。
いくら人に自慢して見せつけても他人はさほどスゲーとか思っていないのです。
そんなもの人は心底うらやんだりしません。
私もあなたの家にどんな高級品があろうが「へー」です。
そんなものをスゲーとか、いいなぁとか、思うような人は友達ではなく、子分、家来です。
それって上から目線です。下品です。
自分の方が上だぞ、イイ暮らししてるんだぞ、という事で精神的優位性を保とうとしているあなたの品の無さが丸出しだから、むしろそういうのやめた方がいいですよ。キラキラな装飾をする、それを誇る人間の心理を見抜けるようになりましょう。あなた、見抜かれているのですよ。
あなた自身がものに頼って、より大きく魅せようとしているウソの姿勢。メイク、脚色、装飾分る人には分かる。
素晴らしい芸術品や、国宝になるものは華美な装飾はありません。
本当に優れた人間は自分をゴテゴテにデコデコにしてきらびやかに見せようとしません。
そういうのは、自分を作って見せかけているだけです。
「慚恥(ざんち)の服は諸々の荘厳に於いて最も第一なりとす。」
慚恥(ざんち)とは、恥を知る心、自分のやっていることが「ああ、本当にこのままじゃダメだ。私は何をやっているんだ。」と恥をしることです。その心をこそ、身にまとう服としなさいという事です。
たとえば一国の王で尊敬される人は、どこぞの王や大統領夫人のように、きらびやかなものを身にまとったり、豪華三昧、贅沢三昧、靴を何千足も持っているというような品のない王ではないのです。
真の富裕とはカネモチのことではありません。
ものの豊かさではなく、心の豊かさを求めましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

その通りですね。。
目に見えるものだけが大切なのではないのだと、今後気をつけたいと思います。
ありがとうございました!

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