hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

宿曜経について

回答数回答 3
有り難し有り難し 34

久々の質問です。
宿曜経には宿曜占星術が説かれていますが、仏教では占いは禁止ですよね?宿曜占星術は例外的に許容範囲なんでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「昔の物差し」と「今の物差し」

清香さん、こんばんわ。

宿曜経を読み、宿曜占星術について少しばかりの心得がある私の立場から回答させていただきます。

おそらく、あなたは「釈尊は教団に呪術、呪や占いを持ち込むのを禁止された……」なのになぜ?という疑問をお持ちなのでしょう。

仏教に興味を持ち少し勉強された方が多くもたれる疑問かと思います。

確かに、釈尊は教団に呪術、呪や占いを持ち込むのを禁止されました。
理由はよく知られる通り、それらに気を取られているようでは修行がおろそかになり、場合によっては仏教からどんどん遠のいてしまうからです。

また、釈尊は目に見えない存在について「無記」という立場を取られました。
詳しく言えば否定されたわけではありません。否定も肯定もされず語られることはありませんでした。
が、実際には釈尊や釈尊十大弟子や歴代の高僧には神通力や法力、目に見えない摩訶不思議な力を持っていたというような話が仏典や伝説や歴史書で伝わっております。
とはいえ、それについて積極的に語ると執着を起こし、修行がおろそかになり、人々を惑わし、同じように仏教の本質から遠のくので「無記」がスタンダードです。

そのような教えがありながらなぜ、宿曜経というものがあるのか?
占星術と聞くと今の現代人は星占いを連想しますが、昔の人にとっては天体の動き、星の動きが自然の動きであり、現代的な言葉に直すと「自然科学」「天気予報」「暦とカレンダー」のような扱いでした。

一方で骨を焼きその焦げ目で占うような、今でいう雑誌の片隅の占いコーナーやネットで検索すれば湧き出る根拠も何もないような占いも昔からありました。

それらは似て全く異なるものなのです。

ですので、宿曜経を今の物差しで測れば「占い」かもしれませんが昔ながらの物差しで測れば「昔ながらの科学」「生活の知恵」だったのです。
これは呪や呪術に関しても同じことが言えます。

ご存知かどうかはわかりませんが、昔は一人前の正式な僧侶となるためには仏教の勉強やお経や作法の勉強はもちろん、医学や科学、化学、文学の勉強も必要でした。人々を救う為、また嗜み、教養として必要でありました。
その過程で師匠から弟子へと受け継がれてきたのが本来の宿曜経における占星術です。

字数の関係で書ききれず説明不足の点も否めませんが、参考になれば幸いです。

合掌(^人^)

{{count}}
有り難し
おきもち

慈蔵房(氵門亠广)
未だ愚迷凡夫の身ではありますが、皆様の一助になるようなお答えができれば幸い...
このお坊さんを応援する

仏教では…というか…

密教ですよね。私はよそのQ&Aサイトで名前を聞いたことがある程度の認識です。占星術に関するものだということはこのご質問で知りました。密教内でもマイナーなものなのか、メジャーなのかは存じません。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
このお坊さんを応援する

禁止というか、そもそも必要としない…というスタンスかも。

ご質問拝読いたしました。

宿曜経についての詳細は存じ上げませんが、すこし仏教と占術の関わり方について私見を述べさせていただこうかな、と思います…!

「よく易を修める者は占わず」という筍子の言葉があります。

どうやら、占術を極めた易者は、もはや占うことを必要としないようです。

というのも、人間の我欲を離れた、より大きな視点で眺めれば、
「吉凶どちらも人間の魂が成長するためには、ありがたい恩恵」だからです。

占術における吉凶とは、本質的には
吉=物事を安定・持続させ、積み上げていく力
凶=物事を破壊・変化させ、余分なものをそぎ落としていく力
なのだそうです。

占術とは、本来そもそも、人間の「我欲」にとっての「都合の良し悪し」を判断したりコントロールするためのものではないのですね。

「人生の喜びも試練も、自分の魂の成長にとっては必要な要素。
今ここでできるだけのことをして、それ以外はすべてお任せして、結果を受け入れる」

これが結局のところ占術が行きつく先、つまりはゴール地点。
そして同時に、仏教が説く、基本的な姿勢です。

仏教は「結果を受け入れるために、自分は今どうするか?」という教えです。
だから、「未来の吉凶を読むことって、別に無くても困らないよね?」というのが、ベーシックプランなのです。

そう考えれば、仏教において占いがそれほど重要視されてない理由が、わかる気がしませんか?

ちなみにですが、経典の中でお釈迦さまが語気を強めているのは、当時、占いによる人間性の否定が横行していたからだと思います。愚かな扱い方も全てひっくるめてNO!とおっしゃったのかと。

「吉凶にがんじがらめになって、ものごとの本質を見失ってしまうくらいなら、占いは必要はありませんよ。むしろ、我欲をふくらませるような扱い方をするなら、占いは毒薬です。知らぬまま毒を飲み続けるより、物事を分け隔てなく受け入れる修行をしてごらんなさい。そのほうが、ずっと効率的に本当の幸せに近づきますよ…」

お釈迦さまが言いたかったのは、こういうことなんじゃないかなーと思います。

占術も仏教も「無記」です。コンテンツ自体はニュートラル。
でも扱い方次第で、毒にも薬にもなる。

ふたつを並べて、禁止とか例外とか矛盾を論ずるのは、そもそも意味のないことかもしれません…

参考になれば幸いです。

合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

大慈さん

ありがとうございました。

妙香さん

なるほど!分かりやすかったです。ありがとうございました。

沙門さん

なるほど。それは初耳でした!ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ