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在家信徒がやってはいけない「越法罪」とは何でしょうか?

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はじめまして。
三面大黒天を信仰している在家信徒の者です。

「越法罪」というものがあり、在家信徒がやってはいけないことがあると聞きました。
特に手印を結んだり、 梵字を書くのは良くないと聞きました。

お不動さんには、在家信徒向けの礼拝方法が書かれた本がたくさんあるので分かります。
しかし大黒様や烏枢沙摩様については、文献が限られているので、よく分かりません。

「越法罪」の境界線は、何なのでしょうか?
「在家信徒がやってはいけない礼拝」には、どのようなことがありますか?
教えていただけましたら、幸いです。

ちなみに私は、三面大黒天様にお供えをし、毎日お灯明、お水、お線香をあげています。
そして大黒さま、毘沙門さま、弁天さまの真言と般若心経を唱えています。
烏枢沙摩様も、ほぼ同様です。
印は結んでいません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

神仏の前に僧俗の隔て無し

僧侶がこれは在家の人はやっちゃいかんとかいうのはものによっては人間のルールである場合もあります。
お釈迦様の前に人間ルールはありません。
現代日本僧とて、僧侶といっても僧俗の隔てはさほどありません。
仏法は万人の為のものです。
あなたが菩提心と謙虚な気持ちを以って仏法を求めるのであれば、やってはいけないことなどありましょうか。
ですが業界によっては、そういうルールが存在することも実際の現実でしょう。
それは仏法ではなく人法に属するものであると感じます。
仏法は僧俗、在家出家に関係なく一切の人を救うものです。
もちろん、出家をしないと入ってはいけない修行道場などもあると言えばありましょう。
私は修行道場時代、本堂にお詣りにお越し下さった方をお焼香にご案内したことがあります。「テメー、誰に断って焼香させてんだ?」と絡んできた先輩僧侶が居ました。「私はご開山様です」と一言申し上げ、相手にしませんでした。お寺は檀信徒さんの護持の心があって支えられているのに、俗物感情で縄張り意識を持っている僧侶や僧俗の隔てを持ちながらも、お寺を自分たちのもの化していたその僧侶を同じ僧として恥ずかしいと感じたものです。僧侶じゃなく、僧の衣を着たシャバ人間でしたが。
仏法の前に人間のルールを持ち込むのはいつも人間です。
言わんとすることを何となくくみ取っていただければ幸いです。
私が焼香にご案内したのも「せっかく来てくださった方々だから是非ともお詣りして頂きたい」とご案内したのも人間法と言えば人間法、人間ルールです。
いずれにせよ、仏道、仏法とは「わたくしルール」を勝手に持ち込まないもの。「わたくし」を離れるために「わたくしルール」を捨て去るのです。
越法とは、自分で戒名をつけて仏教徒であるかのような態度をしている人や、仏法をそしるような行為、自分自分したものを捨てられない姿勢を戒めるためのものとして捉えてはいかがでしょう。
たとえば、先日、お寺に「お経を挙げさせてください」とお参りに来られた方がいました。これから法事が始まるのに、延々と次の人を待たせてまで読経を止めない方がおられました。
その人は仏教、勤行をやっているようでも、周りが見えていない「自分をやっている人」でした。
そういう自覚がなさや押しつけがましい仏教者も実は越法の一種であったりします。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
「地獄に落ちる」というような恐ろしい話しも聞きましたので、気になっていたのですが、胸のつかえがおりました。
「わたし」の執着から自由になりたいと思っていたのに、いつしか「わたくしルール」にこだわり、自分で自分を縛っていたようです。
気付かせていただき、ありがとうございました。

その後、色々と調べてみたのですが、私は大きな誤解をしていると教えられました。

密教の勧請を受けた出家者に課せられる「三摩耶戒」には、確かに「まだ未熟な者に難しい法を教えてはいけない」、「未熟な者が阿闍梨の許可なく勝手に難しい法に手をだしてはいけない」と言う越法罪があるそうです。
しかしそれは、勧請を受けて「三摩耶戒」を誓った修行者に課せられるもので、勧請を受けていない一般の在家信徒には成立しない罪なので、心配しなくても良いとのことでした。

私は、修行者の規則を勝手に、在家信徒にも通じる規則と誤解していたようなのです。

どちらにしましても私は、ルールに執着して、大事なことを忘れかけていたことには変わりなく、それに気付かせていただきました丹下覚元さまには、感謝いたします。

(ただ、在家信徒の礼拝は神経質にならなくても良いが、密教の修行・修法の場合、きちんとしたお師匠さまにつき、その指導を受けた上で行うべきである、と釘を刺されましたが)

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