hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
そらノート 亡くなった人やペットに思いを伝えよう hasunoha姉妹サイト登場

人と動物の違いを教えてください。

回答数回答 5
有り難し有り難し 62

よろしくお願いいたします。
少しタイトルとは異なりますが。
お坊さんに聞いてみたい事があります。当たり前に心では理解していますが、理論的には解らないことがあります。
人は他の動物の命をいただいて生きています。動物でも植物でも人は他の命を自分に取り込んで生かされていただけている。と理解しています。

では、人が人を殺してしまう行為はなぜ悪だと言えるのでしょうか。憎悪のままに人の命をを手にかける事は当然いけない事だと解ります。では、それが人が生きていくこと。つまりは人が人を食すためだとしたらそれは魚や牛の命をいただくことと同等の正統的行為になるのでしょうか。
戦時中や遭難時など、緊急避難的な状況なら解りますが、それが今私たちの周りにある日常での出来事だとしたらどうお考えになられますか。
改めて申し上げますが、感覚的にそれは大罪であり、禁忌である事は解っております。
世の中には生まれながらに、なぜ人を傷つける事がいけないことであると理解できない脳を持って生れてしまう人間、学術的にいわゆる「サイコパス」という人間がおり、時に恐怖な事件を起こしますが、そのような方が上記のような質問をされた場合、どう説明されますか。
私も人の命の尊さを知る上で、言葉としても理解しておきたいと思います。
よろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は獅子にはなれない

indigoさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。

日常的に人を食べるのが、牛や魚を食べるのとどう違いがあるのか、理論的に解らないというのは、indigoさんがおっしゃる通りだと思います。
しかし同時に思ったのは、indigoさんを失望させてしまうかもしれませんが、全ての事柄を理論的・理知的に理解できなくてはいけないのだろうか、ということです。それが出来ると考えるのは、人間の傲慢さ、思い上がりではないのだろうかとも思いました。

以前テレビで、アフリカの野生動物の番組を見ました。子育てをするライオンの母親が、大けがをした赤ちゃんライオンを癒そうとしているの様子が映し出されています。
しかしその大けがが治癒しないと悟った母親は、子ライオンの声でハイエナなどが寄ってくる危険性を避けるため、我が子を窒息死させました。そして他の子に母乳を与える栄養にするため、その子ライオンを食べたのです。

私は、なんと理論的で理知的で、無駄のない思考だろうと感動しました。そして人間には到底なしえない行動だろうとも思いました。なぜなしえないかというと、それはindigoさんがおっしゃる通り、「感覚的」な部分が人を押しとどめ、それを為さしめないのです。

人は獅子にはなれません。理論や理知を越える感覚的な部分の声に耳を傾けるのも、人の人たるゆえんではないか、と思います。

ちなみにサイコパスについてですが、私は詳しくはありませんが、一般的な思考とは全く違った経路で物事を考えるのだそうですね。だとすれば、「サイコパスの人」とひとくくりに括って、どう説明するかという質問に普遍的な答えはないと思います。

その人がどのような思考を持ち、どう説明すれば凶行を思いとどまらせることが出来るのか、それこそ理論的・理知的に説明するしかないのでは、と思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

重ねてのご質問ありがとうございます

あらゆる事物には原因と結果があります。原因なしに存在している生物や、無生物、現象は無いはずです。そして原因1から生まれた結果は次の原因2となり、さらに次の…と続きます。実際にはこのようなタテの直線的な繋がりではなく、ヨコの繋がりもある二次元的・三次元的なイメージの繋がりになります。このイメージをある人は川の流れで例え、別のある人は網やオーボールの形で例えました。
そして何が言いたかったか?それはすべての存在は繋がりの中で生きているのであり、単独で存在するものは無い。だから自分を大切にするためには、自分という結果につながる原因を近い所から順番に大切にするしかない。そういう生き方が真の賢さですよ」ということです。
逆に自分一人だけが得をしようとして、出会った人を片っ端から強盗殺人して生きていたらどうなるでしょうか?その場は楽に食っていけるでしょう。でも、だんだんと人間不信の輪が広がっていき、人と出会うたびに、お互いに警戒し合うようになりますね。そうして自分自身も、まわりのみんなも全員が窮屈になって誰も得をしない負の連鎖が回り続けます。これが愚かさとされています。
仏教ではこのような賢さを善と呼び、愚かさを悪と呼びます。
だから自分という結果の、最も近い網の目である人間には手を出してはいけません。確実に負の連鎖が始まります。(更生の可能性が無い重犯罪者の死刑は要議論)
ではその外はどこまで良いか?四つ足?動物?魚?植物は生きている?生物と無生物の差は?これらは現実問題として議論が分かれているところです。有史以来ずっと続いていますから、残念ながら今さら決着しません。
でも、絶対に忘れてはいけないことがあります。自分と違う考え方を頭ごなしに否定し、自分の正義を振りかざすことは、結局はまわりの網の目を無下にしているということです。
字数制限のためだいぶ端折ってます

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

人間以外の生き物を「畜生」といいます。

いのちは輪廻しています。
「梵天」「人間」「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」の6種を輪廻しています。
いのちは全て等しく輪廻しているのですが、いわゆる有り様が違います。
畜生(動物や虫など)も人間もおなじいのちなので等しく尊い存在なのですが、私たちは「畜生は殺してもいい生き物」と考えています。
それが人間と生まれたいのちの有り様とも言えるでしょう。

仏教では当然殺生はダメです。
全てのいのちは今たまたま6種のどれかであるだけで、全て等しく輪廻しているものなのでいのちの価値という意味での優劣はありません。

その中で何故私たちは当然人間を殺してはいけないと思っているのか?
それは、『他人を殺してもいい』ということになれば『自分が殺されてもいい』ということになるからです。
だから『人を殺してはいけない』という社会通念があり、深層心理に焼き付けられています。
しかしそれは「自分は殺されてもいいから、他人を殺したい」という人には何の意味ももちません。
人が作った殺してはいけない理由というものは、時代や場所でガラリと変わってしまいます。
殺人は道徳的に云々という話は後付けに過ぎず、道徳では説明がつかないものです。

人間の作った法律と仏教の概念は全く違います。
人間だろうと動物だろうと虫だろうと仏教でみれば全て同じ価値を持ったいのちです。
どのいのちも殺したら地獄に落ちる悪行です。
虫を殺し、肉を食べて生活をしていてもなんとも思わずに生活している私は本当に恐ろしい生き物だと思いますね。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

自分と他者の苦しみを減らす考え方

仏教は、自分と他者(人間に限らず)の苦しみを減らす教えです。
自分の苦しみが完全になくなる究極目標は、輪廻転生からの解脱です。
生き者であることから卒業するのです。
無余涅槃(むよねはん)といいます。そうなれぱ、この世で生活しなくなるので、微生物一匹さえも殺さなくなります。
で、解脱するためには、悟る必要があります。悟るためには煩悩をなくす修行が必要で、その煩悩とは、怒り・殺意も含みます。
自分の苦しみを完全になくしたいなら、殺さないように努力する修行が必要なのです。

次に、他者の苦しみを減らすことについては、あらゆる動物は死にたくないという感情があり、他人に殺されるときの苦しみは激しいでしょう。
単純に、そんな苦しみはお互いにできるだけ与えないほうが平和で快適な世界になりますから、苦しみを減らす仏教の方向性に合うのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

理性があるから

indigoさん、こんばんは。

野生の動物でも、一部の例外を除いて、理由がない限り同族と共食いはしません。
種の保存という目的があるからです。
弱肉強食が野生の自然な姿です。

しかも、人には動物にはない理性があります。
理性あるものが、種の保存を考えたときに、むやみに同族を殺してはいけないと考えたとしても何ら不思議はありません。

理性を持ち、生き物や植物を愛することが出来る人間だからこそ、殺生することを「悪」だと言えるのです。

しかし問題は、食のために人同士が殺し合わないことではなく、欲のために人が殺し合うことです。
太古の昔から、人間も欲のために人を殺してきました。

これも、野生で言えば種の保存の本能に違いありませんが、想像してみて下さい。

縄張りが減れば食が継げなくなる。= 縄張りを広げれば欲が満たされる。

同じではありませんか?
理性ある「万物の霊長」と言われる人間同士が、悲しいことです。

しかし、例え戦争で仕方なく殺し合いをしなければならなくても、それを悔やむ気持ちが持てるのも人間だけでしょうし、その姿を見て痛む心を持っているのも人間だけでしょう。

だからこそ、殺生が「悪」だと言えるのです。

痛む心があることこそ、人が人たる所以だと言えます。

たとえ心に余裕がないときにでも、ふとした瞬間に、動物や植物を見て「ほっ」とすることができる。

人として生まれてきたこと、誠に有り難いことです。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1,000件を超えました


日蓮宗。倉敷市受法寺住職・岡山市妙立寺兼務住職 1965年生。坊主歴35...

質問者からのお礼

ありがとうございます。
理由をつけて説明していただいたのは初めてですので大変貴重なお話です。
言われている事は理解いたしました。自分なりにかみしめてみたいと思います。ありがとうございます。

浦上 哲也 さま
ありがとうございます。
理屈でなく感覚を大切にというのも大事なことですね。

「動物・ペットについて」問答一覧

猫を助けられませんでした

1ヶ月ほど前に祖母の家の床下に野良の母猫が子猫を連れて入り込んだらしく、祖母の家に行く度に鳴き声を聞きました。母と救出しようと何度も試行錯誤したのですが母猫に任せる判断をして実家に帰りました。祖母には家の中から子猫が出てきたら絶対に連絡して欲しいと念を押しました。 数日後祖母の家から子猫が2匹出たらしいのですが、隣人と保健所に連れて行った後引き取って貰えず、そのまま祖母の家から離れた遠い所に子猫を逃がしたと聞きました。猫が出てきた時に祖母からの連絡はなく、話を聞いた時には終わった事として話されました。それからという物の猫を助けられなかった事をずっと後悔して涙が止まりません。 母も私も猫好きで現在も実家で元野良猫と保健所で引き取った2匹を飼っています。祖母の家にいた子猫も元々里親を探す前提で助ける予定だったのですが、それから祖母の家で子猫の鳴き声を聞く事もなくなったらしく結局何も出来ませんでした。あの時祖母の家に泊まっていればあるいは、壁を破ってでも子猫を助けていれば…と思い返す度に考えてしまいます。 祖母の家の近辺では無責任に野良猫に避妊手術もせず餌を与え続ける家庭があり、そういった事が原因で近隣の人にとって猫は迷惑な存在だと思われている事を知ってやり場のない怒りを感じました。あまりにも辛い出来事で忘れたいです。どうすれば前に進めるのでしょうか。長文で申し訳ありません。回答よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

飼い犬を手放しました

はじめまして。20代女です。旦那と2人で暮らしております。 ペットショップで買った愛犬がいなくなってしまいました。私がというよりは、24時間鳴き続ける犬に付きっ切りでノイローゼになった私を見兼ねた旦那が…。私は里親探しや、友達に譲ることを提案しましたが元々鬱っぽいところやノイローゼ状況を見た旦那が見つかるまでどうするんだ、もう君には無理だ、と言ってどうやってやったかはわかりません、殺めたか捨てたかもわかりません。朝起きたら愛犬はもう居ませんでした。 私がもう少し耐えれたなら、ノイローゼにならなければ、と考え始めてとても悲しい気持ちが押し寄せて何もする気になりません。 とても可愛い子でした、まだ2ヶ月半でした。甘噛み夜泣き、四六時中鳴き続けるあの子に私がもっと耐えれたら旦那もこんなことをしなくて済んだのではないでしょうか。どう悔やんでも、後悔しか浮かんできません。旦那もとても辛そうです。許してもらえるなんて微塵も思っていません。 この子を供養するにはどうすればよいでしょうか。大事にできる自信がなくなったのでもう犬を飼う気はありません。仮に老後になって何かの機会で次に飼う時は、保健所から貰ってこようと思います。これから旦那と普通に幸せに生きていくのはいけないでしょうか。忘れることはもちろんありませんが、この子のことをどう思いながら生きていけばいいでしょうか。

有り難し有り難し 30
回答数回答 1

野生動物の命について教えてください

仕事の帰り道で山あいから車のとおる所まで野生動物の赤ちゃんが2匹さまよっいて周りには母親もおらず車にひかれたりカラスがねらってはいけないと思わず心配になりとっさに車から降りて近づくと一匹は母親と思ったのかひざにのり、もう一匹は溝に落ちかけていました。放っておくことができずどうしてあげたらよいかわからなくて動物病院に電話するとつれてくるかは自身で判断して下さいと言われたので動物病院へ連れていきました。 この子たちはあらいぐまの赤ちゃんでした。せんせいは外来種で畑を荒らしまわる害獣だから保健所にいき殺処分されるといわれました。こんな小さな命で明日も生きられるのかわからないのにそんな言葉は受け入れられずそれなら元の場所に返してきますというとそれは出来ません、法律違反で罰金をとられるしそんな安い額じゃないですときつく言われました。すがる思いで助けを求めにいったのに私のせいでこの子たちの命を奪うことをして取り返しのつかないことをしてしまったらどうしよう、連れてきてしまった後悔と不安と恐怖におちいりました。それでも私はなにもしていないこの子たちの命は人間の手で奪われてしまう、そして一生その事を後悔しながら生きていくのは法律違反や罰金なんかよりも比べものにならないくらいにこの子達の命のほうが大事に思えました。この子達はなにも罪がないのだから連れてきた私を殺処分してほしいくらいです。動物病院のせんせいもどんな命にたいしても平等に助けてくれると思っていたのにきっと犬やら猫絶滅危惧種なら助けるのでしょう、どうして同じ生き物なのにみんなただ必死に生きているだけなのに人間は自分たちの危害をおよぼすからと殺す法律なんか人間のえごだと思います。私はせんせいのいうことなど受け入れられずそのまま無視して連れて帰りごめんねと泣く泣くもとの場所に返しました。食べるものがなくて明日は生きられなくてももしかしたらどこかで生き延びてくれているかもとそのほうが希望がもてそうです。私は賢くないので命の選別ができません。自然界ではこの世のものはすべて平等の命なのに人間界においてはそうではない確かに牛や豚や鳥の命をいただき生かされていると感謝はしてます。そういいながら、蚊や虫を殺す自分もいます。どうしてもこの不条理に悲しくたえられません。どうしたらわりきって生きていったらよいのでしょうか。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

標本集めで多くの命を奪ってきました。

中学校から昆虫採集にはまりました。 野に出て虫を取り,ただ見ていたり持ち帰って飼ったらしました。 いつしかその美しさを永遠に我が物にしようと標本集めを始めました。大きな網を購入し,昆虫針,三角紙、展翅板…道具揃えて,いざ採集に。 捕まえた蝶々はすぐに胸を圧迫し,動けないようにして三角紙と言う包みに入れます。甲虫はエタノールの入った瓶にすぐ浸します。蛾類は分厚い上鱗粉が落ちたらいけないので注射器でエタノールを注入します。 そして得られた死虫は展翅、展足と言って,好きな形に,針で固定します。しばらくすると乾燥して,出来上がりです。 このような標本は何箱もたまっています。たまに出して見るとほんとに美しい物です。 やはり人間には収集欲ってあるだなとしばしば思います。昔のヨーロッパの宮廷貴族だって、アフリカを踏破した冒険家だって、狩りをして、珍奇な鳥獣で家を飾っていましたから。 このことを自分の行為の解釈にしました。 このような貴族趣味が続くと思うと、そうではありませんでした。 高校入学で忙しくなり、野に出る時間がなくなります。そして,仏教に興味を持ち始めました。完全に趣味で本を読み始めたもので、教養になればなあと思っていました。 そして休校になり、時間に余裕ができます。そうすると、野に出たくなります。 いざ,装備を掘り出し採集へ。しかし,思ったより、手を下しにくい。さっきまで花の蜜を吸っていた蝶を捕まえ、手にします。動いている,とてもよく動いています。逃げようとしていますね。そしていつものように胸をつまんで圧迫しようとすると,すごく波動を感じます。羽ばたこうとしているんですね。 その後も何匹か捕まえて,標本にしました。 どうもあの感覚が忘れません。 最近朝起きたら、必ず鼻水がひどいです。夜もまともに眠れません。9時に消灯しても寝付くのは11時近くです。 これまで虫たちを殺してきたことへの報いなのか。とか、その申し訳なさがずっと積もっているからではないかと思っています。 何か,気分を転換したり,心を安らかにする方法はありますでしょうか? 変な質問ですが,どうかよろしくお願いします。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

「天命」の意味とは

「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。

有り難し有り難し 23
回答数回答 4

動物保護はエゴか

こんにちは。いつもお世話になっております。 今回はカラスを保護したことで、思うことがあり意見を聞かせていただきたく質問します。 脚に障害がある、巣立ち前に巣から落ちた子ガラスを保護しました。 放っておけば死んでしまう状況でした。カラスが寿命を迎えるまで快適に暮らせるように、できることをし続ける覚悟はしてします。 今までも動物を保護したことは何度かあります。私が飼っている動物は皆保護したものです。積極的に保護したいとは思いませんが、目の前で困っている動物は助けたいと思います。動物は死にたいと思わないでしょうし、生きていてほしいからです。 ほとんどの人は、子カラスが落ちていても素通りしますよね。カラスはゴミを荒らすし、ヒトを襲うこともある嫌われものですから。でも私はどんな動物でも区別なく生きる手助けをしたいです。この考えは子どもっぽいでしょうか。 それに私は肉を食べますし、大学で動物実験をすることもあるのです。 動物を殺しながら家では保護するのは矛盾していますよね。私はエゴイストなのでしょうか。 お坊さんはどう思われますか? カラスの飼育は自治体により扱いが異なりますが、私の住む地域では届け出が要らないので、ここでは法的な話ではなく思ったことを回答していただけると幸いです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る