人と動物の違いを教えてください。
よろしくお願いいたします。
少しタイトルとは異なりますが。
お坊さんに聞いてみたい事があります。当たり前に心では理解していますが、理論的には解らないことがあります。
人は他の動物の命をいただいて生きています。動物でも植物でも人は他の命を自分に取り込んで生かされていただけている。と理解しています。
では、人が人を殺してしまう行為はなぜ悪だと言えるのでしょうか。憎悪のままに人の命をを手にかける事は当然いけない事だと解ります。では、それが人が生きていくこと。つまりは人が人を食すためだとしたらそれは魚や牛の命をいただくことと同等の正統的行為になるのでしょうか。
戦時中や遭難時など、緊急避難的な状況なら解りますが、それが今私たちの周りにある日常での出来事だとしたらどうお考えになられますか。
改めて申し上げますが、感覚的にそれは大罪であり、禁忌である事は解っております。
世の中には生まれながらに、なぜ人を傷つける事がいけないことであると理解できない脳を持って生れてしまう人間、学術的にいわゆる「サイコパス」という人間がおり、時に恐怖な事件を起こしますが、そのような方が上記のような質問をされた場合、どう説明されますか。
私も人の命の尊さを知る上で、言葉としても理解しておきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人は獅子にはなれない
indigoさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。
日常的に人を食べるのが、牛や魚を食べるのとどう違いがあるのか、理論的に解らないというのは、indigoさんがおっしゃる通りだと思います。
しかし同時に思ったのは、indigoさんを失望させてしまうかもしれませんが、全ての事柄を理論的・理知的に理解できなくてはいけないのだろうか、ということです。それが出来ると考えるのは、人間の傲慢さ、思い上がりではないのだろうかとも思いました。
以前テレビで、アフリカの野生動物の番組を見ました。子育てをするライオンの母親が、大けがをした赤ちゃんライオンを癒そうとしているの様子が映し出されています。
しかしその大けがが治癒しないと悟った母親は、子ライオンの声でハイエナなどが寄ってくる危険性を避けるため、我が子を窒息死させました。そして他の子に母乳を与える栄養にするため、その子ライオンを食べたのです。
私は、なんと理論的で理知的で、無駄のない思考だろうと感動しました。そして人間には到底なしえない行動だろうとも思いました。なぜなしえないかというと、それはindigoさんがおっしゃる通り、「感覚的」な部分が人を押しとどめ、それを為さしめないのです。
人は獅子にはなれません。理論や理知を越える感覚的な部分の声に耳を傾けるのも、人の人たるゆえんではないか、と思います。
ちなみにサイコパスについてですが、私は詳しくはありませんが、一般的な思考とは全く違った経路で物事を考えるのだそうですね。だとすれば、「サイコパスの人」とひとくくりに括って、どう説明するかという質問に普遍的な答えはないと思います。
その人がどのような思考を持ち、どう説明すれば凶行を思いとどまらせることが出来るのか、それこそ理論的・理知的に説明するしかないのでは、と思います。
重ねてのご質問ありがとうございます
あらゆる事物には原因と結果があります。原因なしに存在している生物や、無生物、現象は無いはずです。そして原因1から生まれた結果は次の原因2となり、さらに次の…と続きます。実際にはこのようなタテの直線的な繋がりではなく、ヨコの繋がりもある二次元的・三次元的なイメージの繋がりになります。このイメージをある人は川の流れで例え、別のある人は網やオーボールの形で例えました。
そして何が言いたかったか?それはすべての存在は繋がりの中で生きているのであり、単独で存在するものは無い。だから自分を大切にするためには、自分という結果につながる原因を近い所から順番に大切にするしかない。そういう生き方が真の賢さですよ」ということです。
逆に自分一人だけが得をしようとして、出会った人を片っ端から強盗殺人して生きていたらどうなるでしょうか?その場は楽に食っていけるでしょう。でも、だんだんと人間不信の輪が広がっていき、人と出会うたびに、お互いに警戒し合うようになりますね。そうして自分自身も、まわりのみんなも全員が窮屈になって誰も得をしない負の連鎖が回り続けます。これが愚かさとされています。
仏教ではこのような賢さを善と呼び、愚かさを悪と呼びます。
だから自分という結果の、最も近い網の目である人間には手を出してはいけません。確実に負の連鎖が始まります。(更生の可能性が無い重犯罪者の死刑は要議論)
ではその外はどこまで良いか?四つ足?動物?魚?植物は生きている?生物と無生物の差は?これらは現実問題として議論が分かれているところです。有史以来ずっと続いていますから、残念ながら今さら決着しません。
でも、絶対に忘れてはいけないことがあります。自分と違う考え方を頭ごなしに否定し、自分の正義を振りかざすことは、結局はまわりの網の目を無下にしているということです。
字数制限のためだいぶ端折ってます
人間以外の生き物を「畜生」といいます。
いのちは輪廻しています。
「梵天」「人間」「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」の6種を輪廻しています。
いのちは全て等しく輪廻しているのですが、いわゆる有り様が違います。
畜生(動物や虫など)も人間もおなじいのちなので等しく尊い存在なのですが、私たちは「畜生は殺してもいい生き物」と考えています。
それが人間と生まれたいのちの有り様とも言えるでしょう。
仏教では当然殺生はダメです。
全てのいのちは今たまたま6種のどれかであるだけで、全て等しく輪廻しているものなのでいのちの価値という意味での優劣はありません。
その中で何故私たちは当然人間を殺してはいけないと思っているのか?
それは、『他人を殺してもいい』ということになれば『自分が殺されてもいい』ということになるからです。
だから『人を殺してはいけない』という社会通念があり、深層心理に焼き付けられています。
しかしそれは「自分は殺されてもいいから、他人を殺したい」という人には何の意味ももちません。
人が作った殺してはいけない理由というものは、時代や場所でガラリと変わってしまいます。
殺人は道徳的に云々という話は後付けに過ぎず、道徳では説明がつかないものです。
人間の作った法律と仏教の概念は全く違います。
人間だろうと動物だろうと虫だろうと仏教でみれば全て同じ価値を持ったいのちです。
どのいのちも殺したら地獄に落ちる悪行です。
虫を殺し、肉を食べて生活をしていてもなんとも思わずに生活している私は本当に恐ろしい生き物だと思いますね。
自分と他者の苦しみを減らす考え方
仏教は、自分と他者(人間に限らず)の苦しみを減らす教えです。
自分の苦しみが完全になくなる究極目標は、輪廻転生からの解脱です。
生き者であることから卒業するのです。
無余涅槃(むよねはん)といいます。そうなれぱ、この世で生活しなくなるので、微生物一匹さえも殺さなくなります。
で、解脱するためには、悟る必要があります。悟るためには煩悩をなくす修行が必要で、その煩悩とは、怒り・殺意も含みます。
自分の苦しみを完全になくしたいなら、殺さないように努力する修行が必要なのです。
次に、他者の苦しみを減らすことについては、あらゆる動物は死にたくないという感情があり、他人に殺されるときの苦しみは激しいでしょう。
単純に、そんな苦しみはお互いにできるだけ与えないほうが平和で快適な世界になりますから、苦しみを減らす仏教の方向性に合うのです。
理性があるから
indigoさん、こんばんは。
野生の動物でも、一部の例外を除いて、理由がない限り同族と共食いはしません。
種の保存という目的があるからです。
弱肉強食が野生の自然な姿です。
しかも、人には動物にはない理性があります。
理性あるものが、種の保存を考えたときに、むやみに同族を殺してはいけないと考えたとしても何ら不思議はありません。
理性を持ち、生き物や植物を愛することが出来る人間だからこそ、殺生することを「悪」だと言えるのです。
しかし問題は、食のために人同士が殺し合わないことではなく、欲のために人が殺し合うことです。
太古の昔から、人間も欲のために人を殺してきました。
これも、野生で言えば種の保存の本能に違いありませんが、想像してみて下さい。
縄張りが減れば食が継げなくなる。= 縄張りを広げれば欲が満たされる。
同じではありませんか?
理性ある「万物の霊長」と言われる人間同士が、悲しいことです。
しかし、例え戦争で仕方なく殺し合いをしなければならなくても、それを悔やむ気持ちが持てるのも人間だけでしょうし、その姿を見て痛む心を持っているのも人間だけでしょう。
だからこそ、殺生が「悪」だと言えるのです。
痛む心があることこそ、人が人たる所以だと言えます。
たとえ心に余裕がないときにでも、ふとした瞬間に、動物や植物を見て「ほっ」とすることができる。
人として生まれてきたこと、誠に有り難いことです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
理由をつけて説明していただいたのは初めてですので大変貴重なお話です。
言われている事は理解いたしました。自分なりにかみしめてみたいと思います。ありがとうございます。
浦上 哲也 さま
ありがとうございます。
理屈でなく感覚を大切にというのも大事なことですね。