報いについて
ずっと心に気になっていることがあり、お伺いします。よろしくお願いします。28年前に結婚し、マンションに野良猫がよく来ていたので、餌を与えていました。離れているぶんには逃げないのですが、手を出すと逃げていくような関係でした。でもある日、とても雨がひどい日のことでしたが、その猫が具合が悪いのか濡れそぼってやって来て、部屋に入りたがりました。今まではいくらこちらから近寄っていってもさっと逃げて行っていたのに、猫のほうから部屋に入れてと言うように鳴きながらやって来ました。私は長女を妊娠中で、お腹の子への影響を気にして(猫が持っている菌による奇形)可哀想と思いながらも入れてあげませんでした。猫はしばらく鳴いていましたが、どこかへ行ってしまいました。いくらお腹の子への影響が心配とはいえ、ひどいことをしてしまったと、この時のことが心から離れません。思い出すと、心が痛く、自責の念から逃れられません。長女はトラブルメーカーで何かと心配事を次から次へと起こし、実家を離れて一人暮らしをしている妹も姉の愚痴を聞くの嫌だから帰って来たくないと言います。長女がこのようなのは、あの時助けを求めていた猫を見捨てた報いなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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傘がなければ貸せない
ママさん、はじめまして。
野良猫に餌をあげていたのは28年前のことですね。
あなたは、野良猫がお腹をすかせているのを放っておけなかったのでしょう?
だから餌をあげていたのですよね。
その猫ちゃんからしたら、あなたに恩を感じていたかもしれません。
そんなあなたが、お子さんがお腹にいることを理由に家に入れてあげなかったことを気にしてあられる。
ちょっと考えてみて下さい。
その時の猫ちゃんは、雨の中あなたに、雨宿りという傘を借りに来たのではないですか?
余分な傘があればあなたは貸すでしょう。
でも、お腹にお子さんがいるという理由があった。
ということは、あなたがお子さんのためにさす傘はあっても、猫ちゃんに貸せる余分な傘を持っていなかった。
ということではないですか?
傘がなければ貸すことは出来ません。
それをとがめる人はいないでしょう。
その猫ちゃんも同じです。
決してあなたを恨んでなんかいないと思います。
まして、毎日餌をくれた恩人を恨むような猫ちゃんなら、あなたとご縁を結ばなかったでしょう。
あなたが、そのことを気にしているのは、お子さんのことについて、なにが原因かを探して探して見つからなかったから「もしかして」と思われたのではないですか?
お子さんにそんな因果は訪れません。
お子さんのことは、そのお子さんと、あなたやお子さんの周りの環境が生んだことです。
お子さんはお子さんの目で見て、聞いて、感じて育っていきます。
そこには、きっと他の原因があるはずです。
もう一度、しっかりとお子さんと向き合って見ることをお勧めします。
何かちょっとした行動や言葉で、人の意識は変わるものです。
もう一度注意深く見てあげてください。
基本的には親の因果は子に報いません
田舎の男の子であったため、たくさんの小動物を殺すのが遊びの一つでした。だから、文面を拝読していて、正直、身につまされました。得度する決心をするまで魚釣りが楽しみの一つでしたので、たくさんの魚を殺していきました。その他、思い出すのも恐ろしいほどたくさん殺生をした少年時代でした。だから今でも思い出し後悔することが度々あります。私と同じことを痛みに感じておられるのですね。
あなたはとても優しいお人柄だとなのではないでしょうか。あのとき猫を助けてあげなかった、と悔いる気持ちがない人はこうしたお尋ねをなさらないでしょう。冷たい人ならはじめから餌をやることすらしないでしょう。餌をやったという自分に都合のいい面より、冷たい思いをしていたのに助けてやらなかったという自分に都合の悪い面を見るあなたは優しい方だと思います。報いということで申すなら、餌をやった善はよい報いをもたらすはずです。自分を責める方向にばかり目を向ける必要はありません。
それでも、とおっしゃるかもしれません。しかし、仏教は基本的に自業自得です。親の因果が子に報うとも、積善の家に余慶ありとも言いません。ご長女のことと猫のことは直接には関係しません。一人ひとり自業自得が原則です。ついご長女のことと関係づける気持ちになりますが、そうではありません。
そうすると、ご長女が「トラブルメーカー」であるのは、あなたの育て方が悪かったという方向にむかうのでしょうか。それも違うと思います。人には持って生まれた性質がありますし、親子の相性という大きな要素、そして社会環境も関係します。あなた一人が責めを負うのではありません。
最後に、お釈迦さまは過去の業という不可逆的なものに目を向けるのではなく、今をどう生きるかを大事にしなさいと教えられました。過去に過失があるとお考えでしたら、なおのこと今の生き方を大事にしてください。具体的には、まずあなたが近所においでになる信頼できるお坊さんから仏法のお話を聞い人になり、よいとお思いになった後、ご長女もお誘いになることです。
猫は憑く。(愛着)だから「カワイイ越し」に贔屓してみない。
猫という動物は自然界48のセンターですからあなたの中で贔屓されただけです。
カラスやゴ〇ブリ、ダンゴムシなどのおブスちゃんでも同じように考えていたかどうか?
「ああ、ダンゴムシ可哀想に…雨に濡れて、丸くなっちゃって…オイオイ(泣)」という別視線で平等に考えれば呪縛は解けます。
死語ですが🐈ネコは❝憑く❞のです。姿形、甘い声、カワイイを武器にしているから人に憑りつくのです。あなたは強い意志ではねのけた。憑かれず中に入れずに済んでラッキーです。ツイてる、ツイてる。(^<^)イヤ、結果的に憑いてるから、憑いてる憑いてる~
さて、あなたの悩みは、猫云々よりもお嬢さんとの関わりが猫の手も借りたくらいに自分の理想とかけ離れている、ということではニャいかと。
向き合うべき事は、お嬢さんが自分の思う通りにならないことを問題にしている「自分自身」です。問題はお嬢さんではニャイ。
相手が思い通りにならず 苦 ➡それを問題にする自分を問題に
お嬢さんに対して※期待、要求、過干渉、従順を求める気持ち、良く言えば、娘の将来を良かれと思ってやっているが、報われない。悪く言えば娘に対して我の押しつけ、自己中心的なあり方※がなかったかどうか対話が必要です。
それは世間の親御さんは多かれ少なかれ誰にでもありますが、程度、濃度、質、有り方が問われるだけで、そのあり方次第で愛情として相手に映るか、うっとうしいと捉えられてしまうこともあるのです。
猫の件もそうですが、推測、邪推、アラカジメの決めつけは無くしましょう。
娘は「こうであるべき・こうすべき」という予めの期待や理想の押しつけも子供には抑圧です。
頭の中の幻の理想よりも、リアル本人の方を相手にする。
そのズレを子供は「ママ、ちゃんとリアルのアタシを観てない」と敏感に感じます。
「子供は、子供だ」と思って、上から目線・親だから目線でいようとする親は、子供も反発します。尊厳を認めてくれないからです。一個人として尊重してフレンドリーな親子間を楽しむ時期なのではないでしょうか。
子供が成人したら、保護から見守りへ、心配から信頼へ切り替え、子供への愛も親自身が成長させる必要があります。それが相手を尊重し、尊厳を認めてあげる事がニャか良くなれるポイントにゃ。←憑いてる憑いてる
質問者からのお礼
ありがとうございました。なかなか長女とまっすぐに本音から向き合えていないことから、このように考えていたのかもしれません。「反省はしても後悔はするな」とよく言われるように、今を大切にすることが大事なのですね。後ろばかり振り向いてしまう私ですが、努力していきます。
丹下様、ありがとうございました。丹下様のお言葉を参考に娘と接するよう心がけていこうと思います。