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感情を抑える癖を治したい

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有り難し有り難し 25

お世話になります。

幼少期の親との関係もあるのか素直な感情を抑え「良い子」であることを演じ続けている自分がいます。

もっと素直に変なプライドもなく頑固さを取りたいのですが、どのようにしたら良いのでしょうか?

毎日、一人で勝手に疲れているという状況です。
身近で本音を話せる人もいないので毎日苦しいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分への図式化思考を手放す

流行りの本などの影響で自分が今こうなっているのは、幼少期にこれこれこういう事があったという事の「せい」にしてしまうものですが、おもいきって、その思考自体手放してはいかがでしょうか。
全部自分のせいにしましょうという事ではありませんが、何を考えるのもみんな総じて自己責任なのですよ。
思ったことがこころに作用する。
思ったことがあなたの目前の現実を歪めたり、過去への評価を一面的にしたり、歪めたりする。
あなたが今、それをできない、しない、してしまうのは、どのみち「行動」です。
その行動を選択しているのです。
その反応でいることが安全地帯で心地いいのですよ。
ところがそういう行動をしていると、自分の思う望ましいものではないと後から判断されてくる。
そうして、自分を悪く評価したり、悪しざまに心の中の悪口を自身に向ける。
それがあなたの苦しみの箇所です。
まずは、何をするにせよ、何ができないにせよ、黙っていたという事も、それをやったことになると知ってください。
全部自分がしたいことを選択しているのです。
出来なかったのではなく、しなかった。
やりたいのにあれのせいでできないのではなく、そっちでいた方がぬくぬくで心地が良いから安全地帯、ぬるま湯を選択したと思いましょう。
そうして、自分の素っ裸をみた方が、そこから行動を変えることがたやすいからです。
あなたは本当にしょうもない自分を観ていないのです。
その本当にしょうもない自分意向き合いたくなくて予防線を張って5点に見せかけたしょうもない自分を我々僧侶に見せているのです。
本当は2点なのです。0点なのです。
プライドが意識されているのはそこでしょう。グサリ

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

抵抗しない

ご質問読ませていただきました。

とてもよくわかります。私もそうでした。…というかいまもそうかもしれませんが。笑

自分で自分の感情や思いを気にしていて、起こったらまずブレーキをかけて、この感情や思いがこの状況に相応しいのか?出した批判されないだろうか?を判断して、それから表に出す。…っといった感じでしょうか?

疲れますよね。言葉を発する前に一旦とまるというのは決して悪いことではないと思うのですが、それが他人の評価を気にしてのものであるとストレスになりますね。

まず、自分の価値は他人からの評価できまるものではありませんし、おそらくあなた様は、「自分を否定されたくない」という思いに縛られているように思います。そしてその「思い」にまた瞬時に抵抗してるのでは…?

自分をとことん「ゆるす」というのはどうでしょうか?なにを思ってもどんな感情が沸いてきても全てゆるす。今までの習慣でとっさにぐっと力んだり、感情にブレーキをかけてしまっても、それにただ気付いて、ゆるす。たとえ、「あ~また我慢してしまった~」と思ってもその思いを評価せずに、ただゆるす。とことんゆるすという習慣を少しつけていけば、楽になってくるのではないでしょうか?

仏教では「人生は苦である」といいますが、「苦」とは「思いのとおりにならない」という意味です。自分の思いのとおりにしようとしなければ人生は愉しいです。「思い」=「私」ではありません。それがだんだん分かってくると「私」という思い込みもほどけてくると思います。

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おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。

質問者からのお礼

とても参考になるアドバイスありがとうございます。

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