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転職癖と、仕事に対するこだわりと、人生について悩んでいます

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私は大学を卒業してから初めは正社員で勤めていましたが、その後は派遣社員を転々としています。ひとつの職場に3年いたことがありません。

システム開発・保守系の仕事なので、例えば営業や経理などの仕事と比べると、職場を変えやすい職種なのかもしれません。
社会に出てから10年以上経ちますが、8社10職場くらい転々として、その間ブランク期間も何度もあります。

前職の派遣は、仕事内容は合っていましたが職場環境がよろしくなく、4ヶ月で契約終了しました。

その後に就いた現在の仕事では、職場環境はまあまあ良いのですが、これまで自分のやってきたことがほとんど生かせない仕事内容です。
このままズルズルやっていても特にスキルは身に付かない派遣ですし、長期とはいっても3か月更新でいつ契約終了するかわからないし、それならば、早いうちにスキルを身に付けられる情報技術系の仕事にまた就きたいと思うようになりました。
しかしながら、不安も大きいです。でも、ちょうど春に向けて求人数も増加してきていますし…。

ただ、
①体調面で万全ではないこと。
②現在住んでいるアパートの隣人の騒音が酷く、引越しを考えています。しかし、引越しをすると貯金がだいぶなくなってしまいます。今後何が起こるかわからないので、もう少し貯金をしておきたいところ。

まとまりがない文章になってしまいましたが、まとめるとタイトルのようになります。不安はあっても自分のやりたい内容に近い仕事に早く就くか、それとも仕事に対するこだわりを捨て、とりあえず生活できる今の仕事を続けるか悩んでおります。

ご意見ご回答、どうぞよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

学んだ事をmix&活かして良いことに転化して提供

やれば必ずそれがおこなわれる -無我のおこなわれ-
こちらの意志とは無関係にやればやったことがそこに行われるのです。
それだけあなたは「やって」きた。「積んで」きた。
修行道場では3か月ごとに転役転寮という人事異動がありますが、色んな部署を経験してる人の方が応用がききます。
あなたもすでに色んな経験が脳内に蓄積されています。
それを活用しましょう。
ただし、活用の仕方が見いだせないだけなのです。
あなたがこれからする仕事が味噌ラーメンの会社であるとします。
そこに到るまで、あなたはソバもソーメンもうどんもそばもとんこつラーメンも塩ラーメンも醤油ラーメンも担々麺も食べた。
あなたがこれから味噌ラーメンを作るのに、今までの経験を生かした最高の味噌ラーメンを提供すればいいのです。
そこをちょっと努力すればいいのです。
辞めるにしても、続けるにしても、新しい活動をされるにしても、あなたがあなたの身心の活動をやるという事以外の事が行われるわけではないのです。
とにかく「何か」はやっているのです。
こうしてものを読んでいる時だって「やって」いるでしょう。
それを仕事で「どう」活用するか、だけです。 
「人生は一生自分自身の活動以外に何かがある訳ではありません。」(ここを100回読んでください)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様、ご回答ありがとうございます。

>「人生は一生自分自身の活動以外に何かがある訳ではありません。」(ここを100回読んでください)
全文を100回読みました。

どう活かすか、が私にとっては少し難しいです。
とにかく毎日何か経験しているし、それらをどう活かすか、という視点が大事なのですね。

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